先日、お近くのカフェの方がご来店。途中で、中断してジュースを買いに走る、というシチュエーションの中で(笑)。
よく、「偏った体の使い方をしていると、体が歪む」というコピーをチラシなんかで目にする。カフェなんかでもどこででも、同じ仕事を繰り返しているなら、皆そうなるわけで。
そのカフェの方の体を触りながら、考えていたのは「体は歪んでいるんじゃなくて、適応しようとしてるんじゃないだろうか」ということ。より「便利」なように、ね。
同じ仕事をくりかえし続けるなら、「それにふさわしいカタチ」になってきてもおかしくはない。つまり、ある方向に歪めたほうが「やりやすい」から、そうなるのでは?ということだ。それを、便利な形状記憶筋肉が覚えて「体全体の歪み(骨の歪みじゃなく、ね)」になる、、、。仕事をしているときに夢中で気付かず、仕事がおわったときに、歪みを感じるなら、「仕事が終わった状態にふさわしい筋肉の配置になっていない」とも考えられる。ただし仕事をするにはふさわしい状態かもしれない。
もっとも、仕事をしつづけることが辛いのであれば、それは歪みが許容量を超えた、ということ。そもそも、生まれてから、いや、人類が発生してから、そういう風に生活するようにはできていなかったのだから。というわけで、そのときは、元にもどしてやるべきである。
問題は。「歪めた方がやりやすい」状態は「理にかなっているか」である。理にかなっていれば、仕事が終わったときにはそれなりの元の状態になるよう、リセット法を教えればいい。かなっていなければ、「かなった」方法を教えればいい。単に、歪みがあるのが害悪だ、それを治せばいいのだ、とは言いきれない問題がそこにはあると思う。
個人的には、ベストではなくても「ベター」を体は選択すると思うので、「歪み=不正」を選んだはずはなく、最大公約数としての「意味の在る良い状態としての歪み」を表現しているはず、と信じている。ならば、施術家は、「歪みを退治」するのではなく、「理解した上で『戻してやる』」のが、筋道なんではないだろうか。
どうしていきなり「である」調なんだ???
ライトなブログを書いたらバランスをとりたくなってこうなっちゃったの。