気と超能力 | 尼崎の矯正しない整体院・かいつう館です(^^)

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1回の時間はかけますが、やることはとことんシンプルに。
笑って良くなる整体院を目指しています。お客さんを通わせない、技術の出し惜しみをしない、楽になってもらいたい、という気持ちを忘れない。そういう思いで、整体をさせていただいています。

今日は土曜日、明日は日曜日。たぶん、Jさんのチェックも入らないと思うので、きょうは商売ッケ抜きの話にしちゃおうっと(笑)。

また、友人の同業者との話。
彼は、いま、「独りОリングテスト」に凝っているのだが、何事も練習とお遊び、ということで、自分の前世をОリングで確かめてみたらしい。
結果は、、、

「メキシコでタコスを売っていた」だったらしい(爆)。

そんなツカミはおいといて。

その彼と、気の話しになった。
で、どうも話が噛み合わないなあ、と思っていたら、「気」と「超能力」がごっちゃになってるんではないか、と。

そういうことから「気」って、こういう特色があるんじゃない?という話題になりました。
気で人をふっとばす、という先生がおられます。それを受け入れるとして、じゃあ、気ってなによ、と考えた場合。

ふっとぶ人が50キロの体重としても、50キロの岩を目の前に置かれてふっとばせる気功師は、、、そうそうおられない。

この事実から「差・違い」を考えていった場合、「交流・共感」のしやすさ、がポイントなんじゃあないか、ということに気がついたわけです。岩よりも、人のほうが、共感しやすい。共振しやすい、共鳴しやすい。交流しやすい。

で、もし、ここに岩と共感しあえる気功師がいるとしたら(まあ、岩の今、考えてることが心でわかる、とか、岩の今の、精神状態がわかる、とか、岩と自分は一体だったんだなあ、と納得できる、とか、ですね)、そのひとは、いともたやすく岩をふっとばすかも知れないです。

もちろん、それよりもはるかに人のほうが共感しやすい。だから、人は容易にとばせるんだろうなあ、と。あ、もちろん、それが自分にはできる、という信念もあるんでしょうが。

あと、岩と違って、飛ぶほうの人間も双方向で共感・共振できる、ていうのも大きいかな。

ただ、だからと言って、神秘的だなどと思いはしません。なぜなら、常識の範疇にあるからです。たとえば、気で、倒れている人の一切の筋肉を使わずに起こすことができる、としたら。または、飛ばす、ではなく、向こうからこっちに近づいてくる方向で「手前に飛ばす」ことができるなら。または、飛ばす、じゃなく、浮かせる、なら。
かなりびっくりします。

気を当てて飛ばす。これは、見えてないですけど、「気が当たったなら」向こうに飛んでも不思議ではない。物理的に当てられた方向に飛んでいくわけですから。それが、下から上へ変化が起きたり、上に飛んだり、手前に飛んだりしたら、神秘ですわ。はっきり言って。

このへんになると、超能力の範疇ではないのかな、という話なんですね。

んで、気を使って、スプーンと交流しようなんて人はあまりいないと思うので、気功師がスプーンを曲げようなんてあんまり思わない、ような気がする。

んで、おそらく、そもそもは気って、ものごとを調和に向かって揃えようというエネルギーなんじゃないのか、と。生命力とか、治癒力とか、成長力とか。だから、スプーンを折ったり使えなくする方向に働かせることはできないんじゃないのか?スプーンの人生(スプーン生?)を中断させるような力になり得るのか?
人の傷を癒す気功師は、同じエネルギーで、スプーンを折るように人の骨を折ることはできない、と思うのね。それは、超能力のなかの念力、じゃないだろうか、と。 

(もっとも、気でも超能力でもない、どっちでもありどっちでもない「力」もあるな、とは思ってますが、この時の話にはでなかったので、割愛ね。イメージ力、意識の力、右脳の潜在能力、なにかを信じる力、とか。)


で、一言で乱暴にくくってしまうなら。

念をもってして、思い通りに現象を動かす。
気をもってして、本来あるべきように調える。

こんな違いがあるんではないの?という結論になりました。

あっ、、、、

、、、、、

、、、、、

そうそう、よく考えたら、僕も彼も、気功師でもなく、超能力者でもないのでした。あはは。
ですので、本物の気功師さんも超能力者さんも、本気でツッコミいれないように。
楽しい「読み物」ということでおおめにみてくださいまし。