ソロシンガーになる夢を懐いて上京した真梨子さんの高校時代3年間は、彼女にとっては黒歴史だったかも知れません。記事では、JAZZに没頭した修業期間だったかの様に綴られていますが、実際は、事務所のアイドル路線に不満を募らせる辛い日々だった様です。

 やがて、真梨子さんは、そんな憂さを晴らす様に夜遊びを始めたとか望んだソロでの活動が叶えられぬ真梨子さんは、寮生活で門限破りを繰り返したと云います。

 誰もが、「私が、私が」と競う世界にあって、真梨子さんは、「お先にどうそ」と云う性格だったとか。扱い辛い真梨子さんに、事務所関係者は「向いてないんじゃない」と冷ややかな視線を向ける様になったとか。

 娘の非行?を知らされ、駆け付けた母千鶴子さんも、「じゃ、連れて帰ります」と真梨子さんを博多に連れ戻したとか。千鶴子さんは、「遊び盛りなのだから」と、娘の夜遊びやら門限破りを擁護した様です。

 こうして、真梨子さんの東京生活は、僅か3年で終止符を打ったのです。夢破れて、帰郷した真梨子さんですが、歌を諦めた訳ではありません。博多に戻って、地道なクラブ歌手として精進したのです。

 やがて、真梨子さんは伝説のクラブ「88」のステージに立つことになりました。真梨子さんとしては、「博多一」くらいを目指していたそうですが、巷では「博多に凄い女性ヴォーカルがいる」と噂されていたとか。

 14歳でJAZZの勉強を始めた少女も23歳の大人の女性に成長していました。クラブ歌手としての地位を確立した真梨子さんを熱心にスカウトしたのが、カプリシャスを率いるペドロ梅村とフルート奏者のヘンリー広瀬でした。

 当時、「別れの朝」の大ヒットで人気グループの仲間入りを果たしていた、ペドロ&カプリシャスは、女性ヴォーカル前野曜子が脱退し、その後任探しに躍起になっていたのです。

 そこで、博多時代に真梨子さんと旧知の仲だったと云うペドロさんは、ヘンリーさんを連れて彼女を口説き落としに来たのです。しかし、真梨子さんは、「二度と東京には行かない」と心に決めていたとか。

 ペドロ等だけでなく、多くの業界関係者が真梨子さんにスカウトを掛けても、けんもほろろに拒絶されていたとか。しかし、幾度断られても、ペドロさんは諦めなかったそうです。最後に彼は、「一年なら良いか?」と真梨子さんを口説いたとか。

 こうして、1972年、真梨子さんは、ペドロ&カプリシャスの二代目ヴォーカルとして、再度の上京を果たすのです。

 ここでも、真梨子さんは、最初は辛い思いも味わったとか。ステージに上がっても、観客から「高橋まり?Who?」と云った冷たい視線を向けられたと云います。しかし、真梨子さんは、「歌うのが仕事」と割り切って耐えたとか。

 やがて、1年ほどが過ぎ、そろそろ博多に戻ろうかと云う間際に「ジョニイへの伝言」が大ヒットしてしまったと云います。