サヴォナローラは、ドミニコ会の聖職者でした。ピコ・デラ・ミランドラの紹介で、ロレンツイオ・デ・メディチがフィレンツェに招いたと云います。

 サン・マルコ修道院で活動していた彼は、次第にメディチ家の独裁政治やローマ教皇の腐敗、ルネッサンスの華美で軽薄な風潮に反発し、厳格な信仰に戻るべきであると考えるようになったとか。 

 やがて、教会の説教を通じて民衆を煽るようになったと云います。彼の情熱的な説教はフィレンツエ中を沸騰させました。サヴォナローラの鳴らした警鐘の通り、フィレンツエは災難に見舞われました。

 1494年にイタリア戦争が勃発、フランスのシャルル8世軍が迫って来たのです。ロレンツイオの息子ピエロは抵抗することも出来ず逃走したとか。あっけなくメディチ家独裁は終焉を迎えたと云います。

 替わって市民の代表に選ばれたのが、この事態を予言したとされるサヴォナローラでした。彼はその後4年間、フィレンツエの実権を掌握し、市民の贅沢を戒めたとか。

 彼は堕落の元凶として裸婦を描いた絵や楽器を没収し、焼き捨てるという「虚飾の焚刑」を実施したと云います。

 しかし彼の厳しい神政政治は次第に市民の反発を受けるに至ります。同時にローマ教皇庁、ドミニコ派と対立していたフランチェスコ派の宣教師たちの反発も強まりました。1498年、遂に教皇アレクサンデル6世はサヴォナローラを異端であるとして破門に処したのです。フィレンツエ市民はサン・マルコ修道院に押し寄せ、サヴォナローラを拘束しました。  

 かつてはサヴォナローラの説教に熱狂した市民も掌返しで彼を引き立て断罪したのです。いつの時代も世論とは移ろい易いものです。サヴォナローラも最後は焚刑に処せられ敢無い最後を遂げたのです。

 サヴォナローラはルネッサンス全盛期に現れた特異な宗教改革者でしたが、民衆の支持を受け続けることが出来ず、自滅したのかも知れません。

 ボッテイチェリがサヴォナローラに深く傾倒したのは50歳前後でしょうか。新興宗教にのめり込んだ込んだ感じでしょうか。パトロンであったロレンツイオ・イル・マニーフィコを喪った彼の心の隙間をサヴォナローラの過激な演説が埋めたのかも知れません。

 昨今世間を騒がす旧統一教会ではありませんが、ボッテイチェリの心も次第にサヴァヴォナローラの唱える宗教改革に洗脳されて行ったのでしょうか。

 この時期、ボッテイチェリの画風は一変するのです。それまでの華やかな画風は影を潜め硬く宗教色が強くなっていったのです。当然の如く画家としての世間的評価も、右肩下がりで次第に絵の注文も無くなっていったとか。

 ボッテイチェリは1510年、寂しくその生涯を閉じます。享年65歳だったとか。遺骸は自宅近くのオニサンテイ協会に葬られたと云います。

 彼が再評価されるのは19世紀になってからです。それまでヨーロッパはボッティチェリを受け入れるだけの多様性の素地に欠けていたとか。