画集カタログ第2章「フィリッポ・リッピ、ボッテイチェリの師」。表紙には、「玉座の聖母子と二天使、聖ユリアヌス、聖フランチェスコ」の「聖母子」の部分が切り取られています。この「聖母子」の製作年代は1445年から1450年頃と推定されています。テンペラで描かれた板絵です。

 フィリッポ・リッピはボッテイチェリの師として知られています。リッピの絵画を観察すれば、ボッテイチェリの原点が見えるかも知れません。

 リッピは、1406年生まれだとか。ボッテイチェリが1444年生まれとすれば、彼がリッピの門を叩いた1460年には、54歳でしょうか。当時としては高齢の部類に入るでしょう。没年は、1469年で享年63歳だとか。

 リッピは、フラ・アンジェリコとともに、15世紀前半のフィレンツェ派を代表する画家です。フラ・アンジェリコが敬虔な修道士であったのとは対照的に修道女と駆け落ちするなど奔放な生活を送ったことは周知の通りです。

 彼は、フィレンツェの下町の肉屋に生まれたと云います。幼くして孤児になったリッピはカルメル会の修道院で育てられ、修道士となったとか。15歳を過ぎたばかりでフィレンツエのカルメル会サンタ・マリア・デル・カルミネ修道院に入門したと云います。1430年には同修道院の出納簿に始めて画家として言及された記録が遺っているとか。

 リッピは信仰心に乏しい修道士で、制作を巡って度々訴訟沙汰になって聖堂聖職禄の停止や司祭解任の処分を受けたと云います。挙句に、1456年に再び司祭職に任じられたプラートのアウグステイヌス会サンタ・マルゲリータ女子修道院で若く美しい修道女ルクレツイア・プーテイを自宅に連れ去る事件を起こしています。

 当時、リッピ50歳、ルクレツイア23歳と云われます。二人は告発されましたが、リッピの画才を高く評価したコジモ・デ・メデイチの執成しもあって聖職禄の剥奪と云う軽い処分で済んだとか。リッピがルクレツイアとの間に設けたのが後にボッテチェリの弟子にしてライバルともなるフィリッピーノ・リッピであることは周知のことでしょう。

 リッピの工房が最も活発だったのは、1452年に着手されたプラート大聖堂主要礼拝堂の壁画制作に関わった時期だと云われています。この壁画制作は当時のイタリアで最も規模の大きな事業だったとか。使う顔料も多量でいたく経費の嵩む装飾で完成には1466年1月まで15年余の歳月を費やしたと云います。

 壁画の主題は聖ステファヌスと洗礼者聖ヨハネの殉教物語です。リッピの工房を挙げて取組んだ大仕事で、ボッテイチェリ始め多くの徒弟が動員されたと云います。

 リッピの絵画の師はロレンツォ・モナコとされていますが、フィレンツエの先輩画家で夭折したマサッチオの作品からも影響を受けているとか。マサッチオはリッピが所属していたカルミネ派の教会に代表作「貢の銭」等の壁画を描いています。リッピの初期の作品にはゴシック風の堅さがありますが、やがて、マサッチオ風の現実感ある空間、人体表現が現われます。聖母像などに見る甘美な女性像はリッピの特色でしょう。