戸別所得補償というご馳走

 今回、研修としては珍しく時事的な農政問題「個別所得補償制度」が俎 上に上がった。これが料理であれば、見た目は美味しそうに盛り付けられ、食欲を刺激する旨そうな匂いもあたり一面漂ってくる。でも、美味いと思って食べて みたら、中が熱々で舌が火傷するとか、箸先でつまんだ途端にプシューと空気が抜けてペッタンコというように、張りぼてみたいな食い物だったりして。美味 しそうに見えるだけに期待は膨らむのだが、悪い方に考えるとなかなか箸が付けられない。食うべきか、食わざるべきか、それが問題だ!こんな風に、どうも戸 別所得保障制度とは魅惑的であるがゆえに悩ましい食い物のようなのである(実際、この食い物をどう食べたらよいのか分からず、箸を付けようとする人が思っ たより少ないと聞くが・・・)。


この「個別所得補償制度」というご馳走は、民主党が自民党から政権を奪取するために立案したマニフェストの大きな目玉政策だ。これまで 自民党が進めてきた農政は、長年価格維持制度的なものが主流であった。しかし近年、今回のような所得補償的なものが、たとえば中山間地域特別支払い制度や 米麦等の品目横断的経営安定対策などのように、自民党政権の農政の中でも主流となってきていた。だから、「個別所得補償制度」もその経営安定(所得補償) 政策の延長上にあるといえる。この民主党の政策には、当初から「この大きな財源を継続的にどう確保するんだ」とか、「選挙目当てのバラマキではないのか」 といった批判が、かつての与党勢力やマスコミなどを中心に巻き起こった。しかし、こうした批判は表面的な問題の捉え方に過ぎない。

 

 

 

戸別所得補償は本当に農村を豊かにするのか


 

実はこの政策の底流には日本の農業・農村を根本的に変質させかねない重要な問題が横たわっている。


その一つは、自民党政権が所得安定政策へ舵きりした当初から垣間見えていたことではあるが、その背景にはWTO体制下での国際貿易の自由化推進がある。「所得は補償します。でも代わりに門戸を開放します。いいですね。」ということである。実際、先日の新聞によると、経済産業省の直嶋大臣が韓国の最近の経済成長率の高さを取り上げ、その理由がFTAEPAの推進によって国内経済のグローバル化を進めた点にあることを最大限に評価し、日本もそれに学ぼうと旗を振っているという。民主党なら、さもありなん。特に若い松下政経塾出身の民主党議員にはこういったグローバリズム推進論者が多い。


 

実は、それ以上に重要なのは『現代農業』の主張でも言っているが、次の点である。これまで中山間地域特別支払い制度を見た場合に、お金 は決して農家個人に配られることはなかった。それは集落を基本にした協議会という組織に対して支払われてきた。多くの補助金や交付金もそうである。直近の 品目横断的経営安定対策でさえ、農業法人(これだけは実質的に農家個人の場合が多いから例外だが・・・)か集落営農組織である。そう考えると、これだけ多 額をつぎ込む金額のすべてが農家個人に配られるという政策は、今回が初めてといえる。だが、政府が農家と刺しで向かい合う(契約書を交わす)というのは、 農村の流儀を無視した近代合理主義者の手法であるといえよう。農業・農村を守るには、農家自身を守るというのはわかりやすい。だが、わかりやすいだけに、 「なぜ農家個人の生活をわれわれの税金で守らなければいけないのだ、都会にだって苦しい人はいるのに・・・」というような感情論に流れやすい。まかり間違 えば、小田切徳美氏がいうような「都市と農村の対立」にもつながりかねない。だが、ふつうに農村的な感覚で考えれば、農家を守るには農村を守らねばならな い。つまり、農村の基盤を守るための農家の組織力を強め、その力を発揮することこそが重要なのである。その意味合いでは、集落を基盤にした集落営農組織や 農家の経済まで関係するJA組織の力、農業用水を維持管理する土地改良区など、農村での組織をどれだけ強めることが出来るのかが重要である。


 

しかし、いまの民主党の農業政策を見ると、これまで農業・農村の基盤を守ってきた組織や事業に対しては実に冷たい。明らかに自民党の組織基盤になってきた団体の組織つぶしが政策の最大の目論見になっているのではと勘ぐりたくなるくらいである。


 

借金財政の中で限られたお金をどこに対して、どのように投入するのかはとても重要なことであるが、農家個人の財布にお金を配れば農家が 豊かになるというのは非常に幼稚な考えであろう。その一方で、農村の生産基盤を豊かにする農業用水の整備費が削られたり、集落営農組織育成も考慮した品目 横断的経営安定対策のような自民党政権時代の政策を無視はしていないものの、それと逆行するような個別所得補償を導入したりと、一つ一つの政策がバラバラ で、農政全体の目指す方向性がなかなか見えてこない。

 

 

 

地域の自立を目指して今やるべきこと


 

と言って文句ばかり言っていても、問題の進展はない。もともと事業はその時々の政権の思惑によってコロコロ変わる。「猫の目農政」とは よく言ったものだが、事業費に頼ってばかりいたら、翻弄されるばかりで、後で損するのは自分たちである。そうならないように、農村として自立できる方向性 を集落の力で、協同組合の力で探っていかねばならないであろう。その際に事業はむしろ、「使ってやろう」というくらいの考え方をした方がよい。


 

そうした自立的なムラを形作る原動力となるものは何だろうか。以前農文協から刊行された『実践の民俗学』の中で山下裕作氏は、「村が ら」ということを言っている。これは単なる「村の個性」ではなく、村の構成員たる個々の農家が組織的に動いたときに発揮される実践精神そのものであるとい う。地域の水利形態や山林の所有形態、畑作中心か稲作中心か、どのような信仰が支配的かといった文化的な背景によって形成される「村がら」は、村の歴史や 長年にわたって蓄積されてきた共同の「記憶」の共有化によって強まり、豊かになっていく。


 

現在作成中の『信州いいやま 暮らしの風土記』の中にも、飯山の衆の「村がら」がいろいろなことわざや言い伝え、格言などとして記録されている。その一つ一つが、村や集落として助け合い、支えあいながら自立して生きていくための知恵を表現している。


 

たとえば、「借り方八合、なすとき一升」(借りたときに八合でも、返すときにはそれよりも多く、一升くらいは返すものだ)はご近所付き 合いの作法を語ったことわざだ。言ってみれば、これは内山節さんが言うような、モノを借り合い、返し合うことで、村内でモノが盛んに回り、結果として村の 経済が標準化されていくことを物語っている。同じように地域の山に見られる残雪の形を目安にタネをまいたり、カマキリの巣づくりの高さやツバメの飛ぶ高さ によって、その年の積雪の高さや天気を予想したりしてきたのは、自然を観察し、読み取る力を自給し、暮らしや農耕を営んできた証なのである。こうした共通 の財産を、共通の「記憶」としてしっかりと受け継ぎ、現代を生きる知恵や作法として活かしていくことで、内発的で自立した地域づくりの新しい芽も出てくる であろう。


 

今回の民主党政権による戸別所得補償のなかでは、かなりの予算もつぎ込んで米粉用米や飼料米、バイオマス米などの生産を奨励しようとしている。一方で、その出口として農業の6次産業化推進として農商工連携による新規農業ビジネスの立ち上げをう たっている。このあたりは政策の実効性を高める努力の跡が見受けられる。自民党政権は生産に対する出口として、「食育」という消費者向けの政策を大きく 唱って、日本型食生活の普及と地産地消による国内自給力向上を進めてきたが、結局さしたる成果を上げられないままに来てしまったが、今度はどうであろう か。


 

どちらにせよ、これらの事業を地域として活用して新たな地域づくりを展開できるかどうかは、自分たち自身の未来への構想力と自立精神に 掛かっていよう。その際に村の共通の「記憶」に根ざして未来を見通すこと、「村がら」を捉えなおし、そのエネルギーを最大限に発揮できるような協働の力 を、集落営農などの共同活動の中で養っていかねばならないだろう。