1.ある農家の屋敷まわり

2004年の秋、新潟県中里村にあったある農家の灯が消えた。そして翌年31日、その中里村が地図から消えた。この二つの消えるという現象が、なぜか重なって見えてくる。

 

農家は、その中里の300年 という歳月を経た茅葺の農家で、その灯は更に何百年もむかしに遡ることが出来るほどの農家だった。一方、中里村は、雪を克服して住みよい地域づくりを!と 作った「雪国はつらつ条例」が、「雪国はつらいよ条例」と教科書に誤記されたことで有名になった新潟県の山あいの小さな村だ。

 

その農家のことは、たまたま家産論を学ぶ最中に、農文協の新刊本『田んぼビオトープ入門』を読んでいて見つけた。同書96頁に紹介されている。この本の息抜きとして載ったコラム記事なのだが、山里に生きると言うことはこういうことなのだということを、理屈無しで、きわめて具体的に教えてくれる。

 

村 においては屋敷まわりの空間をどのように「段取る」かが暮らしの基本であった。その暮らしの「段取り」一つ一つが、家産を積む行為そのものだった。そこに は水も地形も光も風も雪も、そして生きものも、まさにそこに在るものすべてが間違いなく家産を形成する要素であったことがわかる。96頁の3枚の写真は、それをみごとに物語っている。

 

1枚目、自給野菜をいろいろ育てていたであろう、屋敷裏の小さな猫の額ほどの畑を耕作するじいちゃんの丸い背中の姿がある。とりわけ感心するのは、2枚 目に描き出された水の「使いまわし」。山から搾り出される清水の冷たい沢水をまずは台所の炊事に使い、その雑廃水をコイ池に流す。コイには台所の生ゴミを 与えて育てており、その糞で肥えた水が隣のショウブ田に流れる。屋敷の風景に彩りを与えるショウブは、同時に住む人の心の「和み」も育てながら、その水は クワイ田、ハス田と落ちて行き、最後には稲を育てる棚田に入る。この間に冷たかった水は次第に温まり、適度に栄養分も補給され、棚田の稲をスクスクと育て ることになる。しかもクワイ田やハス田、それに棚田にも、コイやどじょうをはじめ、重要な動物蛋白源になる生きものもうじゃうじゃ育つという。当然のこと トンボやカエルをはじめ生きものたちも、こうした豊かな場所で育っていく。そうしたにぎやかな「生命のゆりかご空間」が屋敷まわりに現出する!

 

更 にすごいは、傾斜のきつい土手だ。食料になるゼンマイやミョウガ、フキ、ヤマユリなど、特に手をかけずに放っておいても勝手に育つものが、実にたくさん植 わっている。当然、夏場には草に負けないように、下草刈りを行っているのだろうが、それは土手の食い物たちを育てるだけでなく、刈った草は積まれて畑の堆 肥にしていたに違いない。そこでは、すべてが暮らすという営みの中で、無駄なく資源として循環し、その循環の過程で食べ物だけでなくたくさん生命が育まれ ている。そこには無駄なもの、無意味なものなど何もない。農村の美しい景観も、こうやって暮らしの中から生み出されるのだなあと、思わずうなってしまっ た。

 

 

 

2.飯山の冬の段取り

 

現 在編集を担当している『いいやま食の風土記』の中でも、こうした土手や畦畔(飯山では「まま」という)のことがよく出てくる。とにかく、その「まま」も含 めて、屋敷まわりには実のなる木(柿やりんご、梅、栗、あんず、かりん、ぎんなんなど)や株や根で増えるフキやミョウガ、ニラなど、とにかく食べられるも のをいろいろ植えていた。味噌や納豆、煮マメなどの材料として、米と共に日常の食卓を支え、同時に換金作物であった大豆も盛んに「まま」に植えられたとい う。「なんにもなくなったら、家のまわり一回りすると何かある」と、飯山では昔から言われたというが、それが暮らしの重要な「段取り」ということだったの だろう。

 

こ の「段取り」は、雪深い飯山では、冬の間食いつなぐための貯蔵・保存の技と知恵にもみごとに表現される。冬に食べる野菜や芋などは土間の穴倉の中に置いた り、「たね」という雪囲いを作って保存したり、またワラで編んだ「つぐら」という籠に入れて雪の中で保存したりした。春にたくさん採った山菜は塩漬けにし て、ぜんまいは干して保存した。また夏場の野菜や秋にたくさん採ったきのこも、やはり塩蔵で冬場に備えておいた。漬物もだいこんの沢庵漬けに野沢菜漬、白 菜や塩蔵しておいた野菜を使った味噌漬や福神漬など多彩に作った。このほか、寒を生かした寒ざらし粉、凍みだいこん、凍み豆腐。更には天日を利用した切り 干しだいこん、だいこんの干葉、芋干し、芋がら、かんぴょう、それになす干しなどの干し野菜の数々。これに干し柿や乾燥させた鬼くるみやがやの実、しば栗 などの木の実などもあり、その段取りと来たら、実にみごとなものだ!これらは連綿と地域の暮らしの中で受け継がれてきたもので、その一つ一つの技や知恵が 人から人に受け継がれていく、「見えない家産」なのだ。

 

 

 

3.家産を消す経済効率の屁理屈

 

し かし、高度成長期以降、空間を最大限に活かし、使いこなしてきた技や知恵も、また傾斜のきつい山間部の土地も、生活の近代化や「産業としての農業」を推し 進める後ろ盾となった経済効率の論理によって、その多くが無視され、切って捨てられていくことになった。貧乏くさい!狭い!機械が入らない!仕事しづら い!非効率!などなど・・・、いろんな(「屁」の付く)理屈でもって!

 

し かし、どっこい、先のじいちゃんのような人たちは、どう言われようが、その空間を最大限に活かして暮らしてきたのである。その営みによってそれらは大切に 守られてきた。とは言え、守り手が高齢化してくると、じいちゃんのような奇特な人はだんだんと減り、その豊かな空間は次第に荒れ果て、そして消えて行く。

 

農 文協が本としても出している「パーマカルチャー」は、こうした伝統的な「段取り」の巧みさを現代の諸々の学問成果を総合的に駆使しながら読み解き、総合的 に組み立てていこうという「農のある暮らし」の実践手法である。この小難しい話に寄らずとも、単純に地図上の同じ広さの面積について、平らな土地と傾斜の ある土地とを比べると、三角形の底辺と斜面の関係から想像がつくように、傾斜地の方がはるかに面積は広いのである。しかも南向きの斜面だったら、日あたり もはるかに良いし、北斜面だって日陰を好む作物を植えることで、その土地の持つ個性が生きてくる。前述のような水まわしの仕方などは、高低差がない限りは 到底ありえないのである。こんな豊かな条件や個性的な環境があるのに気づかないまま、今の「産業としての農業」の考え方に立つと、やはり食べ物を効率的に コスト安く生産するには平地が絶対いい!となるのである。そして傾斜地には、耕作が困難なところ、または土砂災害などが起こりやすいところという烙印が押 され、「保護・保全」の対象に、つまりは厄介者に仕立てられていく。そして、その守り手の暮らしが消えると同時に、その土地が持っていた豊かな家産的価値 は引き継ぐ人もなしに消えて行くことになる。当然、形としての土地は残るけれども・・・。

 

昨年秋、86年 間中里の地に住み続け、その家屋敷(とそれに続く村空間)を守り育ててきた農家のおじいちゃんは、遠く神奈川の小田原に住む息子のところに身を寄せること になったという。歳をとって、あの雪深く、不便な村にいるのは可哀想という、子どもとしての「思いやり」があったに違いない。これが親孝行として美談に なってしまうのが、まだまだ現代の日本においては現実なのだ。家産論は、こうした山間部のような経済効率の論理から幸いにして外れた地域こそが、拠って立 つべき理論であると思う。

 

 

 

4.見えないものを見せる仕事

 

先のニッポン食育フェアの記念講演で結城登美雄さんが言っていた。

 

20歳でお嫁に来てからこの方、「あたしゃ、飯炊きばっかりで」と言う90歳の婆ちゃんに対して、1食ごとに家族に請求書を出すとすると、1年で約1000回、70年作っているから70,000回で14,000万円にもなるんだと。だから「おばあさん、14,000万円請求書を出してからこの世を去ってくれ」と話してやったと・・・。

 

普段は当たり前すぎて、目には見えない食事づくりの価値を、こうやって見えるものにしてやって、結城さんが90歳 の婆ちゃんを励ましたように、農文協も見えないもの、見えなくさせられているものを見えるようにして人々に気づかせること、そして、それらをコツコツと地 道に守り、受け継いでいる人、または受け継ごうとしている人を励まし、それを支援する人たちを増やして行くこと。特に、村を出て都市に住む人に向けて、帰 農を呼びかけること。先の例で言えば、小田原に老人が出て行くのではなく、中里の村に小田原の息子を引き寄せられるような環境を作っていくこと、そして都 市の人と村の人を結びつけることこそが、農文協の役割であり、その職員の一人である私自身の役割でもあると、家産論を学び直して強く感じるところである。

 

 

 

5.「ええっこ」の再現を集落営農で

 

時あたかも市町村合併が、地域に根ざして暮らす住民の意思に反してまで強要される時代である。新潟県中里村も、この流れの中で今年4月 より、周辺市町村と共に南魚沼市という新しい行政区に仲間入りした。なかには魚沼産コシヒカリの産地が広がったと喜ぶ向きもあるようだが、それは表面的な 現象に過ぎない。この行政の動きは、長年住み続けきた奇特なじいちゃん一人さえ守ることが出来なかったのだから。このツケは、いつか大きな土木工事費とし て行政に回ってくるだろうし、地域崩壊というもっと大きな現象の引き金になるに違いない。今年3月 末、農業・農村基本計画が見直され、「強い農業づくり」に向けて新たな農業・農村像が示されたが、大筋としてはこうした村の一人一人の小さな営みを本気で 支援するようには見えない。頼みの「日本版直接支払い制度」や「集落営農支援策」もどれだけ実効性を持つものか、まだまだ不透明である。だからこそ、農文 協が家やそれを支える村の家産に根ざした大きな営農と暮らしの運動を、足元から進めて行く必要があるだろう。

 

飯 山では、隣近所で味噌づくりの仲間が集まって、仕込みの段取りをしたりするときに、「ええっこする」という言葉をよく使う。「ええっこする」とは「結い」 を組むこと。それは、共同体としての村が自立する基本精神であり、その「結い」の心こそ村の家産や家の家産を実質的に支えているのだ。その現代における 「ええっこ」の姿を、ある意味で「集落営農」にみることが出来ると思う。

 

今、 多様な農業の担い手の育成に向けて、JAも集落ビジョン作りに向けた運動を行っている。村の最大の家産たる「結い」を現代によみがえらせるべく、地域協同 社会の核として、その暮らしに密着した総合性を生かして、JAが小さな集落という単位の中でいかに立ち回ることが出来るのか、JAの行方を見守り、また支 援していきたい。そして地域の持つ多様な可能性に気づくような情報を掘り起こし、集落ごとの営農と暮らしを支援して行くことが、提携事業センターとしての 今年度の最大級の課題になるものと思う。

 このときに、飯山の『食の風土記』に見るように、自給のある暮らしの見直しを食の分野から行うことは、大きな意味があると思う。今年度はこのあたりに自分の仕事の照準を定めて取り組んでみようと思っている。