最近、『長野の食事』の中の「奥信濃の食」にこんな記述を見つけた。朝早くから夜遅くまで、収穫作業に忙しい秋の日の昼の食事を描いたものだ。
「収穫期を迎えて仕事がきつく、疲れを覚える日には、とくに、年寄りが飼っている鶏の卵を二個ほどもらって卵味噌をつくる。畑から抜いたばかりのやわらかい大根を洗って大切りにして、卵味噌をつけると、昼飯がおいしくなって食欲が出る。」(P305)
この記述を読んで、はたと気づいたことがあった。そう、家産論研修で読んだ「家産論その2」の冒頭部にある次の記述。

「昭和になると農家も金がいる時代になった。そのために<家産+(家族)労働力>をやったわけです。鶏を10羽飼いなさい。卵を全部売る。そうすれば、なにがしかの金が入ります。そのためには、じいちゃんでもばあちゃんでも使えというようなやり方。」(p52)
これは、目に見える家産を増やし、家族労働力を無駄なく使うことで金を稼ぐことを訴えた、昭和初期の農村経済更正運動を評した専務の言葉である。

確かにそう思って、『長野の食事』の「奥信濃の農業と食べもの」という、農家の屋敷まわりと背景にある農村空間を描きこんだイラストを見てみると、家畜として馬やヤギと共に「鶏 15~16羽」が記述あり、鶏がかなり農村に位置づいていたことを窺わせる。この鶏こそ、あの昭和初期の経済更正運動の中で、家産像の象徴として推進されたものに違いない。しかも、専務が言うとおり、その世話は隠居したお年寄の担当として位置づけられ、それが冒頭で引用した「年寄りが飼っている鶏の卵を二個ほどもらって・・・」というような表現にもつながっている。

専務自身は、農村での経済更正運動を、ちょうど高度経済成長が始まったばかりの頃に起こった「水田+α」路線と微妙にオーバーラップさせて見ている。そして、それは稼ぎのために「見える家産」を増やすことにこだわり、拡大経営路線にひた走り、結果として農家や農村の崩壊を招いたとして、その運動の限界を見て取る。こうした見方自体は、とても的を得たものであるし、こうした運動と思想的に対峙する中で、専務の家産論は構想されている。

しかし、専務が昭和初期の「+α」部分の象徴としてとらえた「鶏10羽」だが、間違った家産の増やし方だったのだろうか。つまらないところに拘るようだが、やけに気になるのである。農村を豊かにしたいと純粋に立ち上がった農村経済更正運動は、確かに一面では地主-小作制の元凶から目をそらし、家産増という経済運動に目をそらさせたのかもしれない。しかし、その動きは確実に自給に基礎をおいた農家の営みを豊かにする方向に動いたことは間違いないだろう。

確かに当時の卵は売ることを先に考えたであろう。現にそうだったようだが、先にも触れた文章にもあったように、いざ相次ぐ重労働で体が疲れたときには、家族の滋養強壮食として、前述した「卵味噌」のような新しい郷土食に変身しながら、食卓に根付き、農家の暮らしと家族の体力を支えてきたのである。また、労働力としての役割を終えたと見なされていたであろうお年寄りが、稼ぎの元として誇りを持って担当できた鶏の世話は、彼ら彼女らに生きがいを与えていたであろうし、その生産物たる卵を家族がもらう時には、大いに感謝されたであろう。その卵のやり取りの中にも家族同士の見えない絆が深まるのを見ることができるのではないか。こう見て行くと、「鶏10羽」は大切な家産となって、その家の「見えない家産」も支える存在となっていたのではないだろうか。

 「家産論その2」の農家の討論の中に、過疎地域の集団離村のようすについて秋田の農家が語っているところがある。

「また、オラ方の話だけれども、村の中心から十二キロくらい離れたところに部落が二つあったんですよ。それで一つの部落は今、集団移転ということで国道の近くへ十二~十三戸で出てきているわけです。で、もう一つの部落は依然としてある。今だにへばりついて頑張っております。で、その違いをみていると、出てきた方は最初に鶏をやめた、鶏がいなくなった。その次に馬がいなくなった。要するに家畜がいなくなって、そして人間がいなくなって家もなくなったと。もう一つの方は鶏は全部ではないがまだ飼っているし、馬ではなく馬が牛に替わって牛を飼っていると。やっぱりなんというか、他の県のことはわからないけれども、秋田県の場合にはだいたい家がつぶれるとか無くなっていくという際に、最初に鶏がいなくなると言われています。(中略)家畜がいなくなるということは地力が駄目になって行くということでもあるし。」

パーマカルチャーによると鶏は多面的な機能を持つ。卵を採るというのは、そのうちのほんのわずかな機能のことに触れるに過ぎない。当初は、こうした目的で導入されながら、農家の営みに根付く中で、農家の論理によって、その多機能性が引き出される。おそらく、昭和初期に多くの地域で導入された「鶏10羽」は、当初の目的をいい意味で裏切り、このようにして家産として根付いていったに違いない。当然のこと、生産部門における「見えない家産」の最大のものである地力の増進にも寄与している。専務の主張を引いて、逆説的にいうならば、「鶏10羽」を本当の意味で楽しむ農家経営こそが、今求められているのではないだろうか。

 余談ではあるが、今編集作業をすすめている長野県飯山市の『食の風土記』に執筆している地域のお母さんの声を紹介したい。この風土記は、『長野の食事』の思想と手法に学びながら、地域のお母さんたちが村のお年寄りから話を聞き取りつつ、地域の食の歴史と現状をまとめたものである。市町村がすすめる「食の聞取り運動」として、全国に発信する文化財にしようと意気込んでいる。

「郷土食の技術の伝承についてですが、昔は親戚の冠婚葬祭に嫁がお手伝いに行った。切り方、味付けなど自分のカンではなく、その地域の味として伝えられてきたような感じがした。そうゆう事が『味を伝えていく』ということに大きな役割を果たしていたのではないでしょうか。」(坪根登美子さ)

「嫁にきた当時『一品持ち寄り』というのが、若い頃は何もできなかったので、非常に苦になった。ある時期一品持ち寄りをやめようという話もあったが、お菓子なんかではおいしくなかった。結局、作ったものを持ち寄り、どういう風に作ったという話が伝承になっている。面倒で嫌なんだけど『何か作ろう』『めずらしい物持って行こう』と思い、一品持ち寄って集まると、『この人がこんなすばらしいお料理の技術を持っていたんだな』って、その人を見直す良い機会にもつながった。おばあちゃん達がお湯に行く時など、持たせており、それもお料理の伝承になっている。」(服部恒美さん)

 「自給自足的なくらしというのは、その場限りの思いつきのくらしではなく、特に冬の長い飯山では、先に先に段取りをつけてくらしていることがわかった。せんぜ畑(自給畑のこと)・やさいの加工・家の回りに食べる木を植えることだってそうだと思う。」(丸山とよさん)

ここに語られる聞き取り手の感想は、まさに家や村における「見えない家産」の受け継ぎ方が語られている。ごく自然な毎日の暮らしの営みの中で、親から子へ、子から孫へ、そして地域のお年寄りから若手へ、若手から子どもへと、そうした家産が引き継がれるすばらしい仕組みが、昔の村には連綿として続いてきた。今、それらが消えかかっている中で、再び「見えない家産」の意味を問い、その受け継がれる仕組みを現代に再構築して行くことが求められている。