カルテNO。00321
広島海田まつたに鍼灸整骨院
365日連続ブログ行進中
わたしの生まれた町は
広島駅から東南に位置する
安芸郡坂町
そんな町に言い伝えがある
なんで今話すか
「野間の火の玉」って
検索してもヒットしない
もうじき
このお話を知る人も
いなくなるだろう
そこでブログに書くことで
後世に伝わることを祈り
書き残すことにします
わたしの歳が54歳
この話を聞いたのが
小学校4年生の時
当時わたしは
名門岡田塾に
通っていた
岡田安芸次先生から
町に伝わる話として聞いた
その前に
野間氏って何者
野間氏の住んでいた
お城はどこ
保木城,発喜城 (ほうきじょう)
建武2年(1335年)熊谷四郎三郎入道蓮覚
によって築かれたと云われる
文安2年(1445年)尾張国野間荘の野間重能が
足利義政より矢野の地を与えられ
野間氏が保木城を居城とした
天文24年(1555年)出張城主の白井房胤とともに
毛利方の仁保城を攻めたことで陶氏に味方し
毛利氏とは敵対することとなる
毛利氏は主力を率いて矢野城を攻めると
熊谷信直の降伏勧告もあって野間隆実は毛利氏に降った
しかし野間氏は許されず
野間隆実ほか一族多数が討たれ
野間氏は滅亡した
と城郭放浪記安芸・矢野城に掲載されているが
伝え聞いた話とは少し違う
戦いは夜起こった
瀬野川の上流から
わらじに油をしませ
流したところ
野間の見張が
瀬野川から攻めてきたと
騙されて
兵力を瀬野川に
すると毛利勢は
坂町の浜に船で上陸
一気にほうきのじょうに駆け上がり
総崩れとなった
野間氏は城を捨て
天応に逃げた
そこから
厳島にわたり
立て直す計画であったが
毛利は各船着き場に
手勢を手配しており
天応でつかまり
首を切られる
不憫に思った
里人たちは
お墓を作り
行きたかった厳島に向けたが
墓が夜な夜な
坂町の方角に
向いた
野間の殿様は
坂に帰りたかった
のでは・・・
それ以降
毎年お盆になると
白い火の玉が
天応から坂に向かって
飛んでいくという
言い伝え
実はわたしは
幼少期から
奇妙な体験を
している
私の生家は
毛利勢が通った
山間の谷に面しており
小さいころから
不思議な夢を
見てきた
家族でそんな体験をするのは
わたしと母だけ
父親がお坊さんになって以降
不思議な夢を見ることが
なくなったが
戦いで命を落とした
戦死者に黙とうをささげます
合掌
今日はここまで
ではまた明日
■漢方と整骨で広島を元気に
海田・まつたに鍼灸整骨院
連絡・082-823-8853
住所・安芸郡海田町窪町4-48三宅ビル2階
詳しくはホームページ
お気軽にご相談ください