今回はマイコレクションから無血開城談判図を紹介。

 

三枚続の横長の大判浮世絵で、明治十一年に描かれた

『二勇之義説』だ。

 

作者の松月保誠は河鍋暁斎に学んだ浮世絵師で、

ほかにも海舟を描いたものがある。

 

タイトルの「二勇」とは、もちろん海舟と西郷で、

聖徳記念絵画館の壁画などで描かれた静かな様子とは異なり

激しい開場談判の様子が描かれている。

 

談判の場所も薩摩藩の屋敷内ではなく、

野営する西郷の陣に進み出た海舟が、敵軍に睨まれる中、

激しく無血開城を説得している錦絵となっている。

 

もちろん史実とは異なるが、

この作品には海舟と西郷のほか、

周囲に描かれた人物にも注目したい。

 

まず、西郷の周囲を固める中村半次郎や村田新八らの

後ろに、板垣退助の姿が確認できる。

 

板垣は甲州勝沼で近藤勇ら甲陽鎮撫隊を破った後、

無血開城談判が成る前日の四月五日に江戸に入っているが

海舟らの談判には参加していない。

 

西郷の後ろに板垣が描かれている背景には、

別の意味が考えられる。

 

板垣は明治六年( 一八七三)、

「征韓論」を巡る紛争から西郷らとともに下野し、

自由民権運動に奔走していった。

 

「二勇之義説」が発行されたのは

西南戦争の翌年、明治十年(一八七七)のことで、

板垣が西郷側にあることを意味しているように思える。

 

一方、海舟の後から睨みをきかしているのが、

大久保一蔵( 利通)有栖川宮熾仁親王山縣狂介(有朋)らだ。

 

西南戦争において、西郷を敵に戦を指揮した面々である。

 

大久保は言うまでもなく、

有栖川宮熾仁親王は鹿児島県逆徒征討総督として

総司令官を務めた。

また山縣は征討参軍として総督を補佐し、

実質的な軍事を統括した。

 

山縣の側には西南戦争で西郷に協力した

大山格之助(綱良)も描かれているので、

一概には言えないが、

大久保や熾仁親王、山縣を並べたこの構図には、

意図的なものを感じさせよう。

 

ちなみに彼らは無血開城談判の当時、

まだ江戸に到着していない。

 

中央説明文にも

「西郷も其頃勤王第一等なりしが、

如何なれば賊の第一等となりしやと、

天下の人之を悲しむなん」

とあり、

やはりこの浮世絵は単なる無血開城を描いたものではなく、

西南戦争が背景にあることが窺える。

 

無血開城を通して、

西郷の功績を示す役割があったのではないだろうか。