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10日目は竹下紘生(政策4/北陸学院)です✨



コウミと愉快な仲間たち


 関西大学体育会準硬式野球部4回の竹下紘生です。これから、自分の野球人生を振り返っていきます。

 


 まず、自分が野球と出会ったのは保育園の時に、父親の草野球チームの試合を観戦したのが初めての出会いでした。当時は、野球に興味があまりなく、ただ観戦して「なんやこれ」ってくらいに思ってました。

 そこからは何もなく保育園を卒園し、小学校に入学しました。小学校へ入っても野球をするつもりはなく、ごく普通の小学校人生を歩んでいました。しかし、小学校3年生になる前に父親としたキャッチボールが楽しかったことをきっかけに、地元の根上学童野球クラブに入部しました。


小学校

 入部した根上学童野球クラブは、地元の石川県では春夏秋のどこかで県一位になるような強いチームであり、自分に続けることができるか心配でした。入部してからは、特に秀でた才能もなく普通の選手でした。この時から声だけは指導者に評価されていたので、自分の代ではキャプテンを務めさせていただきました。当時の自分は今以上に下手くそでチームに貢献できるような選手ではありませんでした。そのことや「くもんいっくもん」でお馴染みのくもん式の塾に通っており両立のしんどさ、キャプテンとしてのあり方について悩み沢山涙を流したこともありました。

 そのまま学年だけが上がり、5年生の時には一つ上の世代が非常に強く全国大会準優勝という結果を残し、公式戦のほとんどを優勝していたので次の自分らの代へのプレッシャーが凄かったのを今でも覚えています。5年生の秋からはキャプテンとしてチームをまとめようとしましたが上手くいかず、真面目にやらない仲間に「帰れよ」と強く言うほど尖っており、嫌われていたと思います。練習ではノックから外され、「もう一度やらせてください」という日々、土日の試合では、1人だけ監督の横で2時間ほど正座させられ、淡々と怒られ、立ち上がった時には子鹿のように数十メートルを何度も転びながら歩いたのを覚えています。でも自分は変な奴だったので、怒ってくれる監督のことが好きでした。冬練では、長距離ランから始まり、自重のトレーニング、素振りというキツいメニューばかりで、キャプテンの自分は監督がいつ来るか監督が歩いてくる道をチラチラ見ており、目が合った時は終わったと思い、案の定怒られました。

 そんな冬練も終わり、6年生になりました。県大会へ出場するための大会がありその大会は9連覇と連覇を伸ばすことができました。キャプテンとして素直に嬉しかったです。県大会では、2回戦で県大会準優勝のチームに負け、全国大会への道は閉ざされました。夏の県大会では3位に終わり、秋の県大会では3回戦で敗れました。結局、自分らの代では一度も県大会優勝を成し遂げることができずに終わってしまいました。この内容からは嘘だと思われると思いますが、なかなか楽しく、沢山成長させていただいた貴重な時間でした。



中学校

 中学校は、小学校時代の仲間と共にそのまま野球部に所属しました。この頃の自分は、今では考えられないですが、サードを守っていました。バッティングよりも守備練習が好きだったのを覚えています。それからは、普通に部活動生活を送っていたのですが、2年の秋大前に、エースがイップスになり投手に転向しました。あの頃の自分はコントロールが悪く、試合でフォアボールを出した分だけポール間を走らされていました。練習では、ここでもかというくらいノックから出されて監督に懇願することも少なくありませんでした。大会前日に、監督から「明日先発」と言われるもの自信がなく「はい」の2文字も言えず夜遅くまで怒られ、おまけに背番号を当日の朝までもらえないこともありました。とても苦い思い出です。そんな監督でしたが最後まで自分を信じてくれたことに感謝しています。中学校時代は、自分の野球人生の中で1番勝てた瞬間が多かったチームでした。大会では、一試合4打数4安打とうい結果を残すも最後の大会は自分の失投で負けました。申し訳なかったです。2期連続の全国大会へ行くことはできませんでしたが、野球人生において大きな経験と転換期になったと感じています。



高校

 高校へはスポーツ推薦で北陸学院高等学校へ進学しました。高校時代は、投手をしながらブルペンキャッチャーをしていた時期もあり、一つ上の世代では4番ライトという木下さんポジだった時期もある異色の存在だったと思います。一年の秋には背番号「10」をもらえたこともあり、順調な滑り出しでした。しかし、2年の秋に背番号「1」をつけるも良い結果を残すことができませんでした。3年の春には背番号「11」をつけ登板せずに終わりました。本当に悔しく「クソが」と思っていました。この頃は、情けない話ですが3つ下の弟と比べてしまう時期がありました。弟は星稜中でキャプテンというエリートコースでした。毎日遅くまで練習をし、家に帰ってくる姿を見て少しばかり尊敬してました。「なんでそんなに練習するがん?」と弟に聞いたこともありました。弟からは「まだ結果足りんからにきまっとるやんけ」と返ってきました。素直にカッケーと思いましたそんな出来事もあり、毎日50本のダッシュとタイヤ押しを続けることができました。続けることできたのは弟の影響だけではありませんでしたが、弟には感謝してます。「ありがとう」。この練習によって球速を上げることに成功しましたが、制球難は無くなることなく、夏の大会ではエースナンバーをいただくも良い結果を残せず初戦敗退でした。



大学

 自分は他の同期14人とは異なり、入学後の説明会にも行かず、約半年間適当に過ごしていました。やることは勉強しかなく、野球をやりたいと思っていました。そんな時に前主将の福永さんと同じバイト先ということもあり準硬へ誘われました。そこから、見学と3度の面談を経て1年の11月に仮入部させていただきました。練習に参加した時は、同期の個性が非常に強く仲良くなれるかなと心配したことを覚えています。12月には関東遠征があり、部屋には橋本と今村がいたり、木下が筋トレしに来たりと同期が集まり、楽しく過ごすことができました。遠征2日目の日本大学戦で準硬初登板をするもボコボコに打たれたのを覚えています。練習納めをし、油断した自分は、新年一発目の初詣で寝坊をし、部則改定のミーティングでも時間間違えで遅刻しました。丸山さんからは「前代未聞やと」と言われ、仮入部期間が2ヶ月延長し、2回生の4月に本入部しました。

 それからは、普通に練習をし、2回生の総合関関戦では先発を任され、福永さんとバッテリーを組み責務を全うすることができたことが嬉しく、楽しかったです。福永さんの代が始まってからは、先発で起用してもらえることが多く、結果も出せていたのですが、秋リーグの開幕戦で肩甲骨の疲労骨折になりチームに迷惑をかけてしまい自己管理のなさを痛感しました。去年の春リーグでは、5試合に先発させてもらい、優勝することはできましたが自分が5戦2勝と藤澤さんが5戦5勝を達成している中、自分の投げている試合で勝てておらず、力不足を痛感しました。関西選手権では京都先端戦で伊藤くんと同期でリレーを繋げたことが嬉しかったです。全国大会では、名城にホームランを打たれてしまい自分が福永準硬を終わらせてしまいました。今でも蘇るくらい完璧な角度の打球やった。名城戦の失点は4失点で全部自分の失点やった。本当に悔しかった。試合終わりには、自然と涙が出て、福永さんからの「今まで投げてくれてありがとう」という言葉がとても嬉しく、抱き合ったのを覚えています。



 自分らの代としては、3回生の総合関関戦終わりに幹部4人と葭安、自分の6人でこれからのチームについて話し合いました。そこで、この6人が中心になって頑張っていこうと話合いました。

 そから迎えた秋リーグでは、2度目の疲労骨折ということもあり、あまり登板機会はありませんでしたが、個人としてもチームとしても課題の見つかったリーグ戦でした。

 春リーグ前には愛媛合宿をしたのですが、自分の成績不振と態度から、木下と橋本に「お前このままじゃ後悔するぞ」と強く叱ってもらえました。あの時はイライラしており、期待してくれていたのかどうなのか本心はわかりませんが、2人の気持ちに不貞腐れた態度をとってしまったことは反省しています。

 春リーグには、木下から「勝てるピッチャーになれ」と言われたこともあり、勝てるピッチングをしようと挑みました。結果としては、リーグ戦4位、自分の勝ち星はゼロに終わってしまいました。しかし、個人としても成績は今までのリーグ戦の中で1番良かったです。同時に、神大戦のようなパッとしないピッチングをしてしまったこともあり、まだダメだなと思う最後のリーグ戦でした。最終節の関関戦が終わってから同期何人かで飲みに行った時に、ここでも木下と橋本と喧嘩というか意見の言い合いというか、とにかくエキサイティングしました。今思えば、真正面からぶつかってくれた2人には感謝してます。

 そこから一次トーナメントに向けて練習をし、一次トーナメント2日目の京都大学医学部戦では、久々の先発マウンドで緊張したこともあり、3回には無死満塁というピンチを招き、0点でなんとか潜り抜け6回無失点だったもののチームには迷惑をかけてしまいました。

 一次トーナメント3日目決勝の関大人健との試合では初回に3点を失うもの今までの関大ではあり得ない逆転劇を見せてくれてクソ嬉しかったのを覚えています。チーム全員が初めて全力で同じ方向を向いた試合だったと思います。そして、マッチがスクイズを決めた時は涙が出そうで、橋本や今村を中心にみんなが活躍している姿が誇らしかったです。最後にサヨナラで負けてしまいましたが不思議と後悔はなく、やり切った気持ちがあってホッとしました。



幹部へ

 今村へ、この破天荒な同期を1年間まとめて1人も見捨てることなく引っ張っていってくれてありがとう。みんながランメニューしたくない時とかも、流されずに自覚持ってやってくれて、その時にこいつについていこうと思った。ファーストからいつもチラつかせてくれる八重歯が好きでした。本当にありがとう。

 橋本へ、幹部になってからの練習態度は、今までとは異なり、自覚が出てきたんだと自分から見てもわかったし、嬉しかった。あと、正直お前とおる時間が準硬人生で1番長かったと思う。その分たくさんぶつかったし、喧嘩もしたと思う。今思えばええ思い出やと思ってる。ありがとう。

 木下へ、自分が結果出てない時に、アドバイスしてくれてありがとう。お前も橋本と同じくらい一緒に時間過ごしたと思う。プライベートの時はなんかよーわからん友達モードに入るし、野球の時は幹部モードに切り替わって変な奴やったけど楽しかった。ありがとう。

 マッチへ、いつも面倒臭い仕事全部やってくれてありがとう。そのおかがで1年間スムーズに活動できた。1番辛い立場やったと思うけど、やり切ってくれてありがとう。また、飲みにいこうや。


同期へ

 途中入部の変な自分に対して、最後まで仲良くしてくれてありがとう。正直、この同期と顔を合わせた時は、どうなるんやろうかと思ったけど、なんやかんやこの同期とおる時間が楽しくて、居心地が良かった。自分は、この14人が同期で良かったし、この同期でもう一度全国大会に本気で行きたかった。結果としては行けんかったけど、最後の関大人健との試合は、自分らの成長も見えた試合やった。それは同期全員があのグランドに来てくれたからやと思ってる。引退してからもみんなで沢山集まろう。本当に今までありがとう。そして、よろしく。



後輩の投手陣へ

 山ちゃんへ、最後の最後まで頼り切ってしまう形になって申し訳ない。山ちゃんはマジでいいピッチャーやから、秋リーグからは警戒されると思うけど、チームが勝つ事を考えて投げたら、絶対いい結果残ると思うから、頑張って欲しい。楽しみにしてる。

 石塚へ、お前は野球がめちゃくちゃ好きで、やりたくて仕方ないっていうのはなんとなくわかってる。肩の痛みで投げれんくて辛い思いしとるのもわかってる。でも、なんとなく野球をやるんじゃなくて、肩が治って次プレーできる時までの準備やと思って、とにかく考えて練習や試合をする事を楽しんで欲しい。山ちゃんがおるけど、頼り切ったままやと絶対ダメやから、入部した時から投手で練習してきたお前が、次の投手リーダーになって頑張って欲しい。

 しもちゃんと田中へ、お前ら2人は、一回生の秋からリーグ戦を経験できとる。正直めちゃくちゃいい経験やと思う。だから、これからはお前ら2人で1試合完結できるように精一杯貪欲に頑張って欲しい。

 最後に、今年のチームは後輩投手陣に何度も助けられて、頼ってしまったことに感謝の気持ちと同時に、申し訳なさがあった。4回生の自分が最後にチームを引っ張れずに、最後にマウンドに立ててなくて本当にごめん。今までありがとう。


両親

 父さんへ、まず野球と出会わせてくれてありがとう。野球と出会ってなかったら、多分何もせずに過ごして来た人生やったと思うけど、野球を通して、多くの事を学ばせていただきました。学童時代はコーチとして自分のケツを叩いてくれて、野球の厳しさを教えてもらった。そして野球の楽しさを教えてくれてありがとう。

 母さんへ、野球してる時は、ユニホームを洗ってもらうことが当たり前で、家でご飯が出てくることが当たり前で、一人暮らしで、当たり前じゃないことが、家では当たり前でした。仕事があっても何も言わずにしてくれてありがとう。縁の下の力持ちでした。当時は、疲れて喧嘩したことがたくさんあったけど、すごく感謝してます。大学に入ってからも食べ物とか家具とか定期的に送ってくれて助かった。ありがとう。





最後に、竹下恒例俳句シリーズ


返り咲け 王座奪還 傑物達(字余り)