いつもご声援ありがとうございます!
14日目は主務:松田朋大(社4/彦根東)です✨
野球史
平素より我々、関西大学準硬式野球部の活動に温かいご支援、ご声援を賜り、心より御礼申し上げます。
前主務の松田です。永村から始まった今年の野球史企画も残すは私と今村の2人になりました。ここまで読んでいただきありがとうございます。もう少々お付き合いください。
野球史
これまでの野球人生を振り返ると、本当にユニークな野球人生だったと思います。そして、改めて野球がこれまでの人生の大部分を占めていたことを実感しました。
いろんな出来事があり、それを文字に起こしていると、思いのほか長文になってしまいました。完全に自己満ですが、自由に書かせてもらいました。ここまでいっぱい我慢したし、最後くらいいいよな?まぁ飛ばし飛ばしでも読んでいただけると嬉しいです。
幼少期
私が野球と出会ったのは6歳の頃でした。共働きの家庭で祖母に育てられた私は、小さい頃から落ち着きがなく、手のかかる子どもでした。体は大きくなるが心が成長せず、手に負えなくなった私に祖母は巨人ファンだったこともあり、バットとグローブを渡し、野球を教えてくれました。野球に出会った私は庭で兄と野球遊びをし、家では高校野球やプロ野球をテレビで見る日々を過ごしました。
そんな私を完全に野球の虜にした試合は2009年夏の甲子園の決勝戦、中京大中京vs日本文理の試合でした。当時、スイミングスクールに通っていた私は15:10に送迎バスに乗る予定でした。そして15:00ごろに9回2アウトを迎えたため最後を見届けてから行こうと思っていました。しかし、そこから日本文理の怒涛の攻撃が始まり、粘りに粘って一挙5得点をあげました。最終的には10-9で中京大中京が勝ちましたが、まさに高校野球史に残る名勝負となりました。試合終了まで、私はテレビの前でただただ夢中になって試合を見ていて、気がつけば時間は15:30を過ぎていました。20分以上遅刻しているため、もうバスは行っているだろうと思いつつ、念のためバス停にいくとバスは私を待ってくれていました。しかし、その日は私のせいでバスに乗っていた20人ほどが遅刻することになってしまいました。あの時、バスに乗っていた方やその親御さん、本当にすみませんでした。しかし、あの試合で野球の面白さに気づき、それからは野球が私の道標になりました。
小学生
小学校に入学してからは日本文理戦の影響もあり、プロ野球ではなく、高校野球に夢中になりました。今時珍しく、ゲームやマンガを買い与えられなかったことも相まって、学校から帰ると過去の甲子園の試合をひたすら見ていました。同じ試合を見過ぎて、2009年から2013年の夏の甲子園の全試合全得点シーンの実況を自然に暗記できた程でした。
小学3年生になると地元のスポーツ少年団に入団し、ピッチャーとしてプレーしました。当時の私は制球力に優れており、コントロールを武器に地区大会で優勝するほどでした。まさか、10年後、バッティングピッチャーでストライクが1球も入らないことやレフト線の打球を左中間に投げて野球人生が終わることは1mmも想像していませんでした。
中学生
中学生になると滋賀では有名な草津シニアに入団しました。地元で実績を残していた私は自信を持って入団しましたが、1日でその自信は打ち砕かれました。チームメイトは私より身長が20cm高く、体重は20kgも重い、球速や打球も見たことないレベルでした。なんとか付いて行こうとしましたが中1の夏に膝を怪我し、結局中学生の間はほとんど野球ができませんでした。
ただ、この2年間が私の人生を大きく変えてくれました。運動が出来なくなった私は野球の戦術や流れについてとことん勉強しました。試合ではその学びを生かしつつ、三塁ランナーコーチとして声を出し続けました。すると、大阪桐蔭や龍谷大平安などの野球強豪校からランコー兼マネージャーとして声をかけてもらえるようになりました。この経験によって組織内での活躍の仕方や立ち回りについて学び、これ以降の私に大きな影響を及ばしました。
高校生
高校は甲子園での応援を見て、いつかOBになってこのアルプスで応援したいという想いから彦根東に入学しました。軽い気持ちで入学しましたが、高校生活は睡眠の6時間以外は勉強と野球に費やすほど凄まじい生活で、目の前のことに喰らいつくだけのとんでもない日々でした。入学当初はこの生活がキツすぎて「今日で1/1095日が終わった」と毎日卒業までの日数を数えていました。
そんな高校生活において、村中先生の下で野球ができたのは大きな経験でした。入部当初、弱小チームが甲子園常連校に勝つ野球は難しすぎて理解できませんでした。毎日毎日ひたすら怒られて、怒られすぎて腹が立って反抗したくなることもありましたが、先生は野球を知りすぎている予言者であり、野球の指導者としては珍しい超賢い国語の先生でもあったため何も言い返せませんでした。そして、入学前、テレビで見ていた時は進学校らしく「時間や場所に大きなハンデを抱えながら質を意識した練習で甲子園ベスト16」と取り上げられていたにも関わらず、実際は「質は量に代えられるが、量は質に代えられない」という先生の考えの下、とにかく量を意識した脳をあまり使わないひたすら数をこなす練習で、毎日疲弊した状態で帰りました。当時は本当に入学したことを後悔していました。しかし、そんな日々に喰らいついていると勝手に上手くなっていて最終的には内野を守ったことがなかった私がショートを守り、5番や4番を打たせてもらうまでに成長しました。
そんな高校野球生活も最後はコロナによって甲子園がなくなりました。甲子園がなくなったことはもちろん辛く、絶望感もありました。しかし、今思えば高校野球しか明るい話題がなかったこともあり、例年よりも学校や地域の方々から応援してもらい、周りの人のために頑張れた独自大会は普通の夏よりも濃い、貴重な良い経験だったと思っています。そして大会の成績はベスト8で、個人としては13打数2安打、打率.154と情けない結果になりました。しかし、何も知らないTwitter民が高校名と4番ショートの肩書きだけを見て滋賀県注目の大型ショートで同じ年の現中日・土田龍空と双璧をなす選手として名前を挙げていました。この時、メディアリテラシーがいかに大切か身に染みて実感しました。さらに、初めて4番を打たせていただいた試合では、4番なのに1回表の無死満塁のチャンスでファーストストライクにスクイズのサインが出たりと監督からの評価もよくわかりませんでした。
大学生
大学は社会学部がある国公立かつプロになる選手と試合ができる大学を探し、当時の監督の母校を目指しました。1年目は普通に勉強が間に合わず、不合格になり、浪人することになりました。2年目は普通にやったら合格するレベルまでになりましたが、直前の模試の結果に驕ってしまい、まさかの不合格。私立について何も調べていなかったのでどこに入学するか迷いましたが色々な縁があって関大に入学することにしました。ただ、関大についてほとんど何も知らない状態だったので、とりあえず高校の先輩で関大に通われていた加藤さんに連絡を取り、流れで準硬式野球部の体験に行くことになりました。体験に行って驚いたことは同期の面々と加藤さんの変わりようでした。
当時の同期の印象はとにかくヤバい奴らでした。2つ上の先輩や大西さん・丸山さんに喰ってかかる人たち、バス大声で騒いでるのをすごく優しく注意したら「バスってなんで静かにしないといけないの?」と真剣に聞いてくる人たちで今までに会ったことのないタイプの人たちでした。彼らに会って「一浪してまで、自分はなんてところに来てしまったのか」という自責の念と高校の同期たちへの劣等感に駆られる日々でした。しかし、高校時代、誰よりも自分ファーストで一番怖く、話しかけられたくもなかった加藤さんがチームのキャプテンとして必死にチームのため、人のために動かれている姿を見て、準硬に入ったら人として大きく成長できるとわかり、入部を決めました。(決して加藤さんをディスってるわけではありません。ホンマに尊敬しています。)
そして入部後、ありがたいことに1つ上の代から同級生として迎えてもらいました。初めて話しかけてくれたのが古田の大ちゃんで優しく僕を同期として接してくれました。初めに話したのが大ちゃんでホンマによかったと思ってます。ただ、私の慎重な性格と誰が同い年かもわからなかったため当たり障りのないように基本は敬語で話していました。しかし、6月くらいに駿平に敬語を使っていることを強く怒られました。そこからはタメ口で話すようになり、一気に距離を縮められました。また、そうちゃんやカトタク、しょーんの1つ上の浪人組には、なかなか敬語が抜けませんでしたが、同じ浪人組として優しく同い年として接してくれ、沢山相談にも乗ってくれました。本当に福永世代のみんなには感謝しかありません。ホンマにありがとう!
1年夏頃から私は学年リーダーとして幹部と同期を繋ぐ役割を担うようになりました。ただ、同期と2つ上を上手く繋ぐのは難しすぎました。加藤さんや主務の収史さんの奮闘ぶりを近くで見ていた私は、同期のチームのことを考えず、組織を壊しかねない要求やその現状を幹部に上手く伝えられませんでした。その結果、冬の合宿であの大事件が起こり、実際にチームは崩壊しました。事件後、色々考えましたが、今後同じようなことが起こりそうになっても私の能力では繰り返してしまうと考え、次の代では学年リーダーを辞めました。
新チームが始まると考えることが減ったせいか、前年の練習試合でヒットを1本しか打てなかった私の打撃が開花し始めました。それと同時に内野の守備は基礎をやっていないボロが出始め、出場機会を求めて外野手に転向しました。すると、春リーグでは代打や人数合わせの守備固めとして出場する機会も増えました。その春リーグでは駿平が無双し、実現するとも思っていなかった優勝を成し遂げました。その優勝の瞬間を私はネクストバッターとして迎えました。回ってこればサヨナラのチャンスだったので、とにかく集中していましたが、前のバッターがアウトになり試合終了。引き分けで優勝が決まりました。しかし、自分のサヨナラ打で優勝を決められなかったため、微妙な気持ちでベンチにバットを置きに行くとベンチに選手は残っていませんでした。振り返ればマウンドに集まって喜び合っているみんながいました。実は私がネクストで集中していた時、ベンチでは「点が入らなくてもマウンドに集まろう」という話になっていたみたいです。私は完全に歓喜の瞬間に乗り遅れました。学生野球の中で最初で最後の瞬間だったので少し後悔しています。その後、チームは関西選手権を突破し、全日まで行けました。
全日は腰の怪我もあり、ベンチには入るが試合には出ないことがほぼ確定していたので、チームのサポートとみんなの頑張りを目に焼き付けるために行きました。対戦相手が決まった時はいいところまで行けるだろうと思っていました。しかし、初戦の九州大学から全国大会のレベルの高さを痛感しました。なんとか初戦は突破しましたが、翌日の名城戦は序盤から防戦一方で、正直このまま負けてしまうんだろうなと思っていました。そんな時、スタンドからのとんでもない声と想いの乗った応援がグランドの選手を奮い立たせてくれました。明らかに応援の力で相手のピッチャーが制球を乱し、堅かった相手の守備にもエラーが出るようになり、球場は我々が負けているのに勝っているような雰囲気でした。普通なら相手に流れが行きかねないプレーをしてしまっても応援の力で強引に流れを修正する様なイメージで、野球の流れについて熟知しているつもりだった私の複数のセオリーを凌駕することが起こり続けました。そのため、たとえチャンスで点が入らなくても、いつかは追いつけると確信していました。その予想通り、気づけば1点差に迫り、なおも無死満塁のチャンスを迎えますが、このタイミングで相手のストッパーが出て来てその雰囲気は一気に断ち切られ、再び全国のレベルの高さを痛感させられました。最終的に、試合には負けてしまいましたが、私の経験したことのないことを1試合で多く経験できた、忘れることない試合になりました。
主務になってから応援団には節目の度に、この時のお礼や話をしているので、私が言うと価値が薄れるかもしれませんが、あの応援はマジで凄すぎました。あのスタンドの光景は一生忘れませんし、今思い出しただけでも身震いする程でした。あの時応援してくれた部員や応援団には本当に感謝しています。ありがとうございました!
福永準硬が引退し、9月1日から自分たちの代が始まりました。新チームでは主務になり、全日の舞台に戻るために「Get Back」をチームテーマに掲げました。しかし、秋リーグはチームに全くなっていませんでした。その結果、順位は定位置の4位で優勝争いには全く絡めませんでした。チーム運営が上手くいかない中、周りからは常に福永世代と比べられて、批判され、幹部がダメだからと言われ続けました。その期間は幹部全員がなんとかしないといけないと思いつつ状況を変えられない、苦しく、もどかしい時期でした。気持ちばかりが先行し、周りと噛み合わず、空回りし続けていました。今思えば、ノウハウや経験もないのに最初から前幹部の様にするのは無理があるし、周りを宥めながから自分らのペースで1つずつチームを作ればよかったなと思います。ただ、当時はそんなこと考える余裕がありませんでした。
そんなチームも合宿くらいから少しずつ変わっていったように思います。合宿でも一悶着ありましたが、それによって各々に自覚が芽生え、いい方向にいったと思います。しかし、春リーグは想定外のことが沢山起こり、終わってみれば秋リーグとあまり変わらない結果になりました。そして、一次予選を迎え、初戦からタイブレークにもつれ込む大接戦になり、トーナメントの恐ろしさを痛感しました。ただ、あの試合に勝てたから試合後、言わなあかんことも言えたのでホンマに良かったです。本当に山﨑様様です。
最後の試合になった代表決定戦は初回に3点取られた時点で、いつものようにそのまま負けてしまうのだろうかと正直思いましたが、チーム一丸となって喰らいついて逆転できたのは本当に感動しました。そして、これが1年間追い求めたチームだと思いました。だからこそ、あの試合で終わってしまうのは本当に勿体なかったし、最後、自分の野球で見たことのないエラーで負けたのは本当に悔しいです。しばらくは切り替えられないほど落ち込みましたが、野球の神様が最後に将来への大きな笑い話を授けてくれたのだと今は思ってます。試合後、声をかけてくれた竹下、ノムケン、奥山、畠中ありがとう。
後輩へ
あまりコミュニケーションが取るのが上手くなくて、関わりにくい主務やったと思うけど1年間一緒にやってくれてありがとう。最後負けてから立ち直れなかった僕に声かけてくれたのは覚えてます。みんなに優しく接してもらって涙が止まりませんでした。
これからは、一人のOBとして試合や練習に行くと思うから困ったことがあったらなんでも相談してきてや!秋リーグや来年の全日出場のために力になれたらと思ってるし、みんなならできると思うからチームで束になって頑張って!新チームの活躍を楽しみにしてます!
あと
榮、また傷心会しような
畠中、高校の後輩やのに何にもしてやれんでごめんな
新主将、主務へ
秋リーグの立命戦、序盤に点を取られてセンターで「今日終わりましたね」「コールドで早く終わった方がいいっしょ」と言ってた佐竹がこんなに成長してチームを背負うとは思ってなかったし、俺らの代からチームを引っ張ってくれた奥山と佐竹が中心になれば、絶対いいチームになるから自分らのペースで頑張って!
奥山溜め込んだらアカンで、引っ掛かることあったら喧嘩してでも言うときや
同期へ
入部当初から暴れまくっていて、最初の1年は距離を置いてました。練習来ないくせに文句だけは一丁前に言って、先輩たちが何を言っても噛みつきに行く、さらに口が上手すぎるから絶対に俺が正しいのに口論中は自分が間違ってるように錯覚するという高等テクを持ち合わせていて、接し方が本当にわかりませんでした。ただ、2年になった頃から接し方もわかるようになって全員と話せるようになりました。自分らの代になり、幹部になってからもぶつかることは多かったけど、今思えば、関関戦の日に腹割って話し合ったことがホンマに良かったと思ってる。あと、俺ら幹部のせいでみんなを振り回してもうてごめんな。たぶん俺らの知らんところで結構けつ拭いてもらってたと思うし、たくさん理不尽も我慢してくれてたと思う。それでも最後まで協力してくれてありがとう!なんだかんだ最後はいいチームになったと思っています。やっと一つになれたところで俺の一撃によって終わってしまったのはすごい後悔しています。ただ、試合後に色々と声をかけてくれてありがとう。最初はあんな風に思ってたけど最後、みんなに暖かく励まされて引退するとは思っていませんでした。最後「マッチで負けたなら後悔ない」と言ってくれてのはホンマに嬉しかったし、いい仲間に出会えたと改めて感じました。これから、毎日会ってた当たり前がなくなるのは寂しいけど、とりあえず夏みんなで旅行に行くのを楽しみにしてます。3年間みんなお疲れ様。そして、ありがとう!
応援団、カンスポへ
3年間、準硬の活動には常に応援団とカンスポが一緒で、特に主務になってからはやり取りも増えて、応援団やカンスポあっての準硬だと実感しています。ここまで一緒にやって来れたのもすごくいい思い出です。特に4回生は準硬の同期18人と同じ、チームの同期だと思ってます。3年間本当にありがとうございました!そして、これからもよろしく!
両親へ
常に僕のやりたいようにやらしてくれてありがとう。中学から大学まで常に家から遠いところで野球をしていて、特に中高はご飯や送迎、洗濯などホンマに負担が大きかったと思うけど毎日支え続けてくれてありがとう。あの生活は一人では絶対に出来ひんし、この支えがあったから今の僕があることは重々理解しているつもりです。小中高の時は試合にも仕事を休んで見に来てくれてありがとう。大学野球は見に行ったら俺が気を使うかもしれんからと言って、たぶん1回も見に来なかったと思うけど、本気で野球をやってる最後の姿をホンマは見てほしかったです。これもおそらく見てないよな?たぶん俺からブログの存在を言うこともないし、きっと見ることもないと思うけどありがとうはホンマに思ってます。これからは俺の野球のせいで行けなかった長期旅行に家族みんなを連れて行けるように頑張ります。楽しみにしてて!
最後になりますが、三浦さん、丸山さん、大西さんをはじめスタッフの方々、大学関係者の皆様、OBOGの皆様、そして準硬式野球部に携わり応援してくださった全ての方々、3年間本当にお世話になりました。皆様一人ひとりのおかげで私たちは心置きなく野球に没頭することができました。本当にありがとうございました。
私たちは引退しますが、後輩たちが関大準硬の伝統や想いを受け継ぎ、今後も精進してくれます。
今後とも、関西大学準硬式野球部への変わらぬご支援とご声援を、どうぞよろしくお願いいたします。









