過去の思い出(幼少期) | 浬の解離性障害生活

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現在何人いるのかわからないけど、いろいろ事件簿みたいに書いてみたいかなと思います。よろしくお願いします(≧▽≦)

とりあえず貧乏だった

 

家と言えば家だけど・・・年中陽が当たらない築100年以上かなはてなマーク

 

風呂はナシ

 

トイレは1回外に出ての、床が抜けたら死ぬな・・・って感じの大きな肥溜め風(小さい頃はとても大きく感じた)

 

昔は馬小屋だった納屋があったけど、荒ゴミでいっぱいだった汗

 

 

神戸で姉と私が生まれたけど、夜泣きがうるさいとアパートを追い出されて、播州方面の母方親戚の持ち家を安く借りて住んでいたみたい

 

弟も生まれて、4人の生活だった

 

父親は仕事(溶接工)で、神戸の会社のアパートに住んでたかなはてなマーク

(単身赴任って感じだろうか・・・電車で1時間だけど・・・)

 

父親も若かったからだろう、まともに家にお金を入れなかったらしい

 

 

夕飯に出てくるのは牛肉なんて、豚肉なんてないえーん

 

鶏肉の皮を炒めたモノがほとんどだったな・・・

(100円でお釣りがくるくらいだったし、子供が買いに行くと安くなる)

 

保育園・小学校と給食があったからよかったんだよねチョキ

 

あとは、遠い親戚や母親の友達の家にご馳走になりに、自転車で1時間かけて行くこともあったおにぎり

 

お風呂もそう

 

近所の家に連れて行かれて、もらい湯をするか週に1・2回の銭湯

 

 

その頃は、自分の家が貧乏って感覚じゃなくて

よその家がみんなお金持ちなんだって思ってたあせる

 

 

母はよく帰ってこない日があった

おばあちゃんに子守りさせて、父に会いに神戸に行ってたらしい

 

父はたまに来る【パパ】と言う知らないおじさんて感じ

【パパ】とゆう人が家に来るとご馳走が出るが、怒鳴り散らす

 

弟はよく両手両足を縛られていた・・・男の子だからだったのか・・・

全身が真っ赤になるほど叩かれていた

手の形が増えていく・・・

 

自分も縛られていた記憶があるけど・・・

あまり思い出せない・・・

 

【ママ】は助けてくれない 【パパ】とゆう人が絶対だからじゃなく

【ママ】は【パパ】とゆう人が好きだったから、私達よりも・・・

 

それでも、姉は特別な存在だったようだ

頭が良いのか要領が良いのかはてなマークよくわからない・・・

 

 

何度かは神戸まで電車で4人【パパ】に会いに行った

「何が食べたいはてなマークビフテキかはてなマークうなぎかはてなマーク

 

何を言っているか理解できなかった

ビフテキもうなぎも食べたことがなかったからだ汗

 

【ママ】と姉が喜んでいるのが不思議だった

 

なんでこんな怖い人と一緒にいれるのかはてなマーク

 

そのうちに、10歳下に弟が産まれたが、生活はもっと苦しくなった

 

 

子供の時は【パパ】とゆう人が怖かったけど

本当に怖いのは【ママ】だったんじゃないかな・・・

 

思い出すと【ママ】は母親よりも一人の女だったと思う

 

今でも母親らしい優しさを感じたことがないからだ・・・

 

 

自分の感覚がおかしいのでしょうか・・・

 

幼少期からはじまっていたのかなはてなマーク

 

今の私になるのが・・・