名松線は松阪から名張までを結ぶ計画だったことから、両地名の頭文字を取って名松線と名付けられた。1929年に松阪―権現前間が開通したが、翌1930年に参宮急行電鉄(近畿日本鉄道の前身)が先に名張―松阪間を別ルートで開通させた。そのため名松線は、1935年の伊勢奥津間までの延伸を持って、名張までつながることなく、終わってしまった。
都市間を結ぶ構想がついえた名松線は利用者が伸びず、国鉄時代には廃止対象となったことがある。その後も利用者は年々減少の一途をたどり、被災前の家城―伊勢奥津間は、1日の乗車人員わずか90人という全国屈指の赤字区間だ。
そこへ2009年10月に台風が直撃。線路内への土砂流入や盛土の流出など被害は甚大で、復旧費用が膨大な金額に及ぶことは容易に予想された。被災後はバスによる代行輸送が行なわれていたが、このまま復旧されないかと思われたが、「鉄路を残さなあかん」と5900人の沿線住民が立ち上がった。
復旧に向けた運動は三重県全体に広がり、2009年11~12月に11万6268人の署名が集まった。沿線人口をはるかに超える数字だ。
沿線住民の要望に対して、JR東海は「鉄路の維持は社会的使命。赤字という理由だけで廃線にすることはない」としながらも、「鉄道を元通りにするだけでは安全運行できない」と、懸念を示した。「家城―伊勢奥津間は山林を含めた周辺部が鉄道に与える影響が大きい。治山、治水対策は、県や自治体が責任を持って復旧してもらいたい」。とした。
工事は2013年5月にスタートし、被災から6年5カ月かかって再開。費用総額は17億1000万円だ。三重県が5億円、津市が7億5000万円、JR東海が4億6000万円を負担した。
東洋経済オンラインより部分引用
伊勢奥津駅は