常識とは何なのか。子供を独立した個人とは見なさず、判断能力が皆無と思い、指示を出せば操り人形の如く動いてくれると思っている嫌いな大人たちが口にする「常識」。それは何なのか。辞書に、常識は一般の社会人が共通に持っている、もしくは、持つべき知識もしくは判断力と出ている。共通に持っているものとはどのように形成されるのだろう。曖昧な「社会人」とはどのような範囲で使われているのか。
そのようなものが形成されるのは、やはり、義務教育課程なのだろうか?文章の構成から、絶対値、ミジンコの観察まで知識として獲得させることにより、それを知識としての常識として受け入れさせようとしているのか………?いや、違う。今、不思議に感じているのはそんなことではない。礼儀が共通のものとして存在するのはどんなときかということだ。礼儀など親が躾るものなのではないのか?それとも、義務教育や躾等の舞台、つまりはコミュニティに於ける生活が人間に芽生えさせるモノではないのか?だがしかし、躾る大人は画一されたものではない。同質ではないということは偏りが出てくるのではないか。共通の教育を受けているはずが受けていない…?この矛盾は何だ?一定の同じコミュニティに属する者同士であるならば、一定の水準までは共通の「常識」とやらが生み出されることは間違いないが、そのコミュニティから一歩でも抜け出せばそこは別世界のはず。国という大きな単位で見たら納得できるが、特有の地域性というのは国のなかにも方言のように存在するはずではないのか?わからない
どれほどの水準に達したら「常識」なのだろう。常識だとか言って、間違ったことを主張している場合なんかもどうなんだろう。自分の持つモノに疑いは持たないのか。共通というからには大衆的に広まっているものであることには違いないだろう。というよりも、それがマジョリティの賛成を得れば、知識は常識という神格化された概念に成りうる気がする。だとしたら、間違っていても、それがマジョリティであれば、正しい主張をするマイノリティは潰され、何でも人間が一概に当てはめることのできる概念が成立することになる。自分で考えたりはしないのか?京大のトマトの話が連想される。トマトを買いあさるのは何なのか。実験段階で決めつける一般人は何なのだろう。人間ではない被験体に影響があれば、人間にも効果を得られると思っているのか?それが彼らの常識というものなのか?
社会人と一口に言っても、人間は何歳でも社会人なのに、何時のことを指しているのだろう。根本からして常識などおかしなものに感じられる。どんな感覚で使っているのだろう