「先生、私は書写書道をやったことがないのですが、書文協(一般社団法人日本書字文化協会)の仕事をしていて良いのでしょうか」。あるとき、書文協の中央審査委員長の加藤東陽先生に訪ねたとき「『眼高手低』で行けばいいのだよ」と教えられました。

 

 目は肥えているが、実際の技術や能力は低いことを言う「眼高手低」。悪く言えば、口ばっかり、とも言えますが、東陽先生は、書を見る目が肥えていることも大事なのだよ、と鑑賞教育の大事さを言われました。

 

 新聞記者上がりで生来筆を握ったこともない男が、書文協の専務理事でいいのか、との日頃の悩みがお陰様で晴れました。新聞社時代に書道展や子供たちの書道大会運営に多く携わり、定年退職後も別の書道団体のお手伝いをしてきたお陰で、書を見る目は自分でも肥えていると自信があります。そして「顔真卿(がんしんけい、中国の唐の時代の書家)が好きだ」などといっぱしなことを口走るのです・

 

 ところで、書文協は字の上手・下手を言うのではなく、書が自己表現であることに重きを置いています。そして文の内容にも注目します。顔真卿の弔文の草稿である祭姪文稿(さいてつぶんこう)は、その点で貴重な作品だと思います。

 ちょっと分かり難いことを書きましたが、書写書道は自己表現の手段であると言うのが書文協の考え。年来の友人が今度、山梨県内の小学校の書写の講師を始めました。「実際はどうだい?」と今度話してみようと思います。眼が高すぎるかな。