某月某日 「かいごさぶらい」上、下巻を出し終えた。余裕があるわけではないが、ブログを続けて、お会いしたこともない方々から、応援や本音に迫る鋭いご質問に接し、キチントご返事しなければならない。これもツケ払いである。


「○○さんは、ご自分の人生観が一変した?と書いておられますが、どのように変わったのですか?」(要約しました、すんません)。


「40数歳になるまでの、自分の生き方が180度転換しました」と、答えたのだが。誠に抽象的で、具体性に欠けた。(え~加減なコメントでしたな)。で。


「私は、自分一人で、大きくなってきたような顔をして、生きてきました」と、ご返事した(ほんまに恥ずかしい)。


「認知症になった母を介護し、ブログには書かなかった母との会話が沢山あります」戦時中に生まれた、赤子の姉を背負い、焼夷弾から逃げまわった話。爆弾が自宅近くに落ちたときの衝撃の話。堤防を逃げる途中で、敵機から機銃掃射を受け、何十人もの人が撃たれ転げ回った、話。


「くうしゅう(空襲)、けいほ~なってな!ね~ちゃんおんぶして、ぼうくうごうにはいったら、ね~ちゃんが、ないてなっ」


「よその、ひとが、うるさいー、でていけー、いわれて、どうしょうか、おもうたわ」と、母は表情険しく、何度も何度も、私に語ってくれた。


「そんなこと、言う人おるんかー」この話が出る都度、私は同じ事を母に聞き返した。(戦時中、皆で支えあってたんと、違うんかー)。


「そやで、にいちゃん、そんなんも、しらんのんか~っ」母は淡々と、語ってくれたが、戦時中の実態を、私は知った。(父からも聞いたことはなかった)。


「おとうちゃんと、おだんご、うってたらな、じゅんさ(巡査)におこられて、やみ(闇物資)やから、いうて、とりあげられたんやでー」母は、腹立たしそうに。取り上げた物資を、件の巡査がどうしたかは、言うまでもない。父や母が幾度もの、こうした修羅場を潜り抜けて、家族(私ら兄弟姉妹、祖母ら)を守ってきてくれたのである。


「一冊の本が出せるくらいの、母の話」こうした話、を聞かせてもらって。生きる術や家族を守る、とはどういうことかを、母から教わった。そんな母を。


「介護してる、は不遜」である、ことも。これまでの人生観が一変した。母を看取り「死生観」も変わった。


「お袋ちゃん、、ありがとうな~」