親戚というのは、本当にありがたいもので、どうしてもオレが病院に行けないときには、代わりに顔を出してくれる。
しかも、お見舞い金を置いてくれて(^^)
なんちゃって
12月27日
Yおじさん14:30〜17:30までいてくれた。
アイスクリーム頼んだ。
(この日は、仕事で行けなかったのだ。)
12月28日
11:30に来ました。
一人でいると、ぼっ〜とするね。
昼食はフルーツだけ。
お粥は少ししか食べません。
動いてないからねぇ。
「朝一度来てたでしょ?」って言ってた。
テレビとか観て、現実感を戻さないといけない。
リハビリはいつからだろう。
13:15、いっかい帰宅するね。
横向きで…おやすみ。
18:00 ちょうど夕食。
お粥とヨーグルトは完食。
がんばれ。
テレビを少しだけ見た。
地震があったね。震度2ぐらいかな。
少しずつリハビリしよう。
19:24おやすみ。医院長がチラ見。
早く転院しましょ。
12月29日
11:50少しスッキリ顔。
左手が徐々に復活。
握力も強くなってきた。
足はまだぜんぜんダメ。
医者にリハビリについて聞いた。
用をなさず。
自分で調べるしかない。
13:20一度帰る。
17:56再来。
ペルー リマ アルナンド マルケス ヘスス マリア #1309。
帰国の船名「太平洋丸」。
43日の船旅。
船で知り合ったウチナンチュが石油缶いっぱいにサーターテンプラー(那覇ではサーターアンダギーという。)を持っていた。
(※これは、この日に母ちゃんから聞き出した情報。母ちゃんの父親、つまりオレの爺ちゃんの世代には、移民がブームだった。沖縄は、特に移民を推奨してたので、満州かペルーで迷ったあげく、ペルーに移民することを決めて移住したそうだ。現地での壮大なスケールの話は、またいずれ別の機会に書くことにしよう。
とにかく、母ちゃんには元気になって欲しいと思う傍ら、親父を亡くしてまだ2〜3年だったオレは、少しでも昔の記憶を残しておかなければ!と思い、新聞記者のごとく、聞きまくった。
それが功を奏したのか、言語や記憶も、徐々にはっきりとしてきたようだった。
ちなみに、この住所をググッてみたら、現地の写真が出てきた。もちろん遥か昔の街並みとはまるで違うが、なかなか凄い時代だなぁと思う。今なら母ちゃんに見せてあげられたのになぁ〜。)
朝、リハビリの簡単なやつをやってたらしい。
メガネのヘルパーは最悪。
病院の方針はダメでしょう。
手術と初期レベルのケアまで。
回復までは考えていない。
(※そらそうだよ!と、今ならわかっているが、介護突入初心者にとっては、あまりのドライさに、精神的にもヤバかったこともあって、ムカついていたのだなぁ。ま、実際、病院の数名を除いては、態度が最悪だったのも事実ですが。結局は、どの仕事でも、最後は人なのだと思う。)
19:15に足が少し動いた、やった!
とにかくオレが治す!
経絡と気功しかないでしょ。
20:00オシメを取り替える。
いつもはオレが帰ってから作業があったのだな。
20:30回診。
お兄さん医者はマシかも。
転院の判断はもう少し慎重にしよう。
また明日。
(※かなり、精神的に追い込まれてたなと思う。だけど、絶対にこの人を救う!という意識が、テンションを上げさせていたのだろうな。そうじゃないと、毎日通院したり、仕事を両立するのはできなかったかもしれない。)
年末に向かっていた時期。急性期がリアルに終了するという意味が、まだわかってなかった冬のひととき。
さ、正月は迎えられるのだろうか?
…つづく