特別養護老人ホームなどの施設において、歩行が可能な入居者の中には、特有の習慣を持つ方がいます。その一つが、共有スペースのトイレットペーパーをコンパクトに巻き取り、衣服のポケットや自室の引き出しに保管する「収集」という行動です。
この振る舞いは、しばしば「持ち出し」や「マナー違反」として注意の対象になりがちです。しかし、その表面的なラベルだけで対応してしまうと、行動の背景にある切実なニーズを見落とすことになります。
まずは、この行動がどのような状況下で成立しているのか、構造的に捉えてみる必要があります。
生活の「空白」を埋めるための備え
トイレットペーパーを収集する背景には、主に二つの動機が考えられます。
一つは、実用的な必要性です。
自室で鼻をかみたい、あるいは尿漏れなどの不安に対して、すぐに使える「紙」を手元に置いておきたい。これは、日常生活を送る上での切実な備えです。
もう一つは、心理的な安全の確保です。
施設生活では、「必要なときに、必要な物が手元にないかもしれない」という不安が常につきまといます。共有物である以上、自分の意思だけではコントロールできないからです。
その中で、「紙を持っている」という状態そのものが、不測の事態に対する安心材料となります。
共有物を自分の管理下に置くという行為は、生活の主導権をほんの一部でも取り戻すための、ささやかな自衛手段なのかもしれません。
現場で起きている「困りごと」
一方で、この行動は現場に具体的な影響も及ぼします。
例えば入浴介助の場面では、ズボンのポケットに収められた紙の束を見落とし、そのまま洗濯に回してしまうことがあります。洗濯機の中で紙が細かく散乱し、他の衣類に付着してしまえば、取り除く作業には相応の手間がかかります。
また、共有スペースのペーパーが急になくなることで、他の入居者が困る場面も生じます。
頭では「不安から来る行動だ」と理解していても、忙しい業務の中で対応に追われる職員にとっては、「わかっているけれど困る」というのが正直な実感ではないでしょうか。
ケアの視点をどう持つか
こうした行動に対して重要なのは、「やめさせること」そのものを目的にしないことです。
まずは、その人にとって何が不安なのかを前提に置いた関わりが求められます。
その上で、現場ではいくつかの工夫が考えられます。
- 代替手段の用意
ポケットティッシュや個人用の紙をあらかじめ渡しておくことで、「いざという時の不安」を軽減する。 - 一定の持ち込みを許容する
完全に禁止するのではなく、「この範囲ならOK」という運用にすることで、本人の安心と現場の負担のバランスを取る。 - 事前確認をルーティン化する
入浴や洗濯前のポケットチェックを「特別な対応」ではなく、通常の手順として組み込む。
職員がポケットを確認するという行為は、単なる紛失防止ではなく、その人が抱えている「安心の痕跡」を扱うプロセスでもあります。
見えてくる「不安」の形
施設で働いていると、私たちが普段当たり前だと思っている「いつでもそこにある」という感覚が、いかに限定的なものであるかに気づかされます。
使いたいときに紙がない。
その小さな出来事は、生活者にとっては大きな不安へとつながります。
ポケットに収められたトイレットペーパーの束は、単なる「紙」ではなく、そうした不安を具体的な形に置き換えたものとも言えるでしょう。
その行動をどう捉えるかによって、私たちの関わり方は大きく変わります。