(1-2-1)深圳から浦東へ | 中国について調べたことを書いています

中国について調べたことを書いています

1.中国広東省の深セン経済特区の成立過程
2.香港・六七暴動
3.農業生産責任制と一人っ子政策
4.浦東新区から雄安新区へ
5.尖閣問題の解決策を探る
6,台湾は国家か

(1-2)深圳経済特区、上海浦東新区に続く全国的な意義のある新区

 

(1-2-1)深圳から浦東へ

 まず、最初に深圳経済特区と浦東新区について、簡単に整理しておく。
広東省の深圳経済特区ができたのは1980年である。この時、同時に4つの経済特区ができたが、その後最も発展したのが広東省の深圳である。(他の3つは、珠海、スワトウ、アモイ)

 深圳経済特区は、鄧小平の始めた改革開放路線を象徴する都市である。鄧小平は、毛沢東時代の自力更生、計画経済といった考え方を大きく変え、対外的な開放と社会主義市場経済の仕組みを取り入れることで経済を発展させようとした。それを実践するための代表的な政策が経済特区であった。「先に豊かになれ」の考えに乗って、大胆に外資の導入を進め、安価な労働力を利用し、労働密集型の加工貿易を始めた。深圳は香港と隣接しており、歴史的にもつながりが深いことも十二分に利用した。その後、先端的な技術を次々に海外から導入して、急速な発展を遂げた。
 深圳が豊かになり、その豊かさは周辺の珠海、東かん、佛山などに広がり、広州を中心とした珠江デルタ地帯一帯の地域が急速な経済発展を遂げた。最初は深圳という一都市から始まったが、その点が徐々に周囲に広がってデルタ地域という面になった。これが経済的な成功のモデルとなり、このあと中国の沿海地方を中心に、都市の対外開放、外資の導入が次々とおこなわれていった。

 上海の浦東新区ができたのは1992年である。浦東は、旧市街のある浦西から見て黄浦江の対岸に位置する。浦西の発展に比べ、浦東は開発が遅れていた。また、改革開放の波に乗って広東省や山東省が豊かになってゆくのに対し、上海は伸び悩みが目立った。その上海再発展の切り札となったのが浦東の開発であった。浦東新区が作られると、毛沢東時代には資本主義の典型として排除されていた金融市場を復活させ、証券取引所が設けられた。深圳とは違い、浦東新区は国際的な金融センターを目指したのである。一方では保税加工区も作られ、対外的な開放、加工貿易も積極的に行われた。浦東の発展は、上海市全体の発展をもたらし、さらには周辺の江蘇省や浙江省にも経済的な発展をもたらした。浦東を起点として、長江デルタ地帯が豊かになった。

 深圳と浦東は、鄧小平が推し進めた改革開放の流れの中で、「先に豊かになった」地域の典型である。そして、新しい都市を作り、そこに市場経済の仕組みを持ち込み経済的に発展させ、さらに周辺の地域にも経済成長をもたらすというモデルが深圳で作られ、浦東でその有効性が実証された。そしてこれが成功のモデルとなったのである。
その後、中国は、この「先に豊かになった」地区の成功モデルを、他の都市、地域にも用いて「後から豊か」にしてゆこうとした。

 雄安新区が深圳、浦東からの流れであることを強調しているということは、雄安新区はその成功モデルを応用しようとしているのだと強調しているように見える。雄安という新しい都市を作り、そこを経済的豊かにして、その豊かさを周囲の都市へと広げてゆき、京三角(デルタになぞらえている)という地域全体の発展を遂げようというのである。この面を強調することで、これが雄安新区の設立に、何らかの正当性を持たせようとしているようにも見える。ただ、この経済的な成功という側面が、必ずしも雄安新区の設立目的に合致しているとはいえないことは、後に述べる。

 蛇足ながら一言付け加えておく。
 ここで成功だというのは、あくまでも経済的に発展したという意味での成功である。
忘れてはならないのは、改革開放当初は、鄧小平が改革開放路線に反対意見があった。改革開放を推し進め、対外開放をして市場経済を取り入れて経済的な発展を目指すことを疑問視する声もあったことである。例えば、改革開放をすることが、資本主義なのか社会主義なのかという議論があった。改革開放には賛成でも、経済特区には反対している者もいた。また、現在でも、都市と農村の経済格差が広がっていることを憂いて、毛沢東時代は貧しかったが平等だったとあの時代を懐かしむ人もいるという。
 それでも党としては、国全体が経済的に大きく成長し、人々の生活が豊かになったこと、社会主義の中に資本主義式の市場経済を大幅に取り入れたことを、成功だと認識している。もはや、市場経済を取り入れることを、資本主義だとして排斥するような考えは少数派である。そして、習近平の路線は、基本的には鄧小平の改革開放路線を「成功」だとしたうえで、その延長線上にある。
 あるのかどうかはわからないが、もし雄安新区に反対する勢力があったとしても、その反対意見を抑え込む理由として、この深圳、浦東の延長線上にあるという主張は、有効なものであろう。