(5-1)開放区の拡大と海南島経済特区(1988年3~4月) | 中国について調べたことを書いています

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2.香港・六七暴動
3.農業生産責任制と一人っ子政策
4.浦東新区から雄安新区へ
5.尖閣問題の解決策を探る
6,台湾は国家か

1988年3月4日に北京で沿海地区対外開放工作会議が開かれた。この会議では、これまで行われてきた経済特区から内地へと開放を進めてゆこうという局面をさらに進め、さらに外向きの経済に転換してゆき、投資環境をさらに改善してゆこうという考えが示された。そしてそのためには沿海経済開放区の範囲を広げることが提案された。拡大の範囲は、改革開放が始まってからの9年間に開放した地域の総和に相当する範囲だとした。つまり、面積を2倍にしようというのである。

 

これを受けて1988年3月18日に国務院は「沿海経済開発区の範囲をさらに拡大する通知」(《关于进一步扩大沿海经济开发区范围的通知》)を出した。1985年に沿海経済開放区に指定された長江デルタ・珠江デルタ・閩南廈漳泉デルタ地区も、その範囲を拡大している。その結果、沿海の省の計140の市、県が沿海経済開放区に組み入れられた。そのなかには杭州、南京、瀋陽という3つの省都も含まれている。また、上海の西側と南西側に位置する江蘇省の南通や浙江省の嘉興なども含まれている。

http://www.gov.cn/zhengce/content/2011-09/01/content_2246.htm

 

また、この中には、遼東半島、山東半島、渤海地区の諸都市も含まれる。

遼東半島の大連、山東半島の青島と煙台、渤海湾の天津と秦皇島は1984年3月には沿海港湾都市としてすでに経済技術開発区に指定されているが、ここを含めた広い範囲の都市が沿海経済開放区に指定されたのである。

今回の開放区の拡大により、開放都市は288、面積は32面平方キロ、人口は1.6憶に増加した。開放の範囲を点から線、面へと広げ、一方で沿海地区から内陸へと開放の範囲を広げて行こうというものである。

http://www.people.com.cn/GB/historic/0304/5872.html

 

 また、1988年4月13日、第7期全国人民代表会議で、海南島が経済特区に指定された。これは、深圳、澳門、厦門、汕頭に続く第5の経済特区になる。また、海南島は面積は33210平方キロで、この全島が経済特区に指定されたことで、中国最大の経済特区になったことになる。さらに、海南島の経済特区成立以降、現在(2020年)に至るまで、第6の経済特区は設置されていない。海南島が最後の経済特区ということになる。

 

同時に海南島は、広東省の管轄下の行政区という扱いから海南省という省に昇格した。4月26日には海南省委員会と人民政府が成立した。これについても、海南省は中国ではいちばん新しい省ということになる。

海南島を経済特区並みの扱いにして開発開放をすすめようという意見は、1980年ごろ、つまり深圳などの経済特区が成立した直後から出ていた。そして1984年3月の段階で経済特区に準ずるような扱いになっていた。これを深圳や厦門と同様に経済特区としたのである。

海南島が経済特区に指定されたことについては、深圳や厦門が一都市を経済特区にしたのに対して、海南島は省都の海口市、三亜市、通什市(現在の五指山市)などの都市を含む全省を経済特区にしたことに注目すべきであろう。これは、この時点で海南島がまだ広東省の管轄下の一地域であったことも関係あろうし、また海南島がまったく開発されていない地であったことも関係あろう。島であり、特区以外の地区との境界を管理しやすかったこと、厦門が全島を経済特区にしたことも関係があるかもしれない。さらには、中国では台湾に次ぐ2番目の大きさの島であることが強調されていたことから、台湾のような地域にしたいというような意識もあったのかもしれない。当時は台湾も「アジアの四小龍」の一つとして経済が急速に発展している地区として認識されていた時期である。全島を特区に指定したのは、開放は点でなく面に広げようという方針の表れであろう。