(10-1)1977年の人口の状況 | 中国について調べたことを書いています

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1.中国広東省の深セン経済特区の成立過程
2.香港・六七暴動
3.農業生産責任制と一人っ子政策
4.浦東新区から雄安新区へ
5.尖閣問題の解決策を探る
6,台湾は国家か

 

 まず、1977年の時点の人口の状況を見ておく。

 1960年代から1970年代前半かけて急速に人口は増えた。この頃、出生率は3%代の年が続き、4パーセントを超えた年もある。出生率から死亡率を引いた人口増加率も2%代が続く。多い年には1年間で一気に2000万人も人口が増えた。

 その後、「晩、稀、少」方針が出されてから、若干増加率は下がった。それでも、中国の人口は毎年1000万人以上ずつ増えていた。1977年の人口は9億4974万人で、出生率は1.93%、1976年から1977年までの増加率は1.34%である。また、1977年の合計特殊出生率(5歳から49歳までの一人の女性が一生に産む子供の数の平均)は3.18である。一人の女性が平均3人以上の子供を産んでいたのである。

 これが1977年の状況であった。

 

 

      出生率、死亡率、増加率

 

 

国家统计/统计数据/数据查询/年度数据

http://data.stats.gov.cn/easyquery.htm?cn=C01

 

 

 

 (世界銀行《Fertility rate, total (births per woman)

https://data.worldbank.org/indicator/SP.DYN.TFRT.IN

 

 

 つぎに、この時期の状況について簡単に触れておく。

 まず、「晩、稀、少」方針であるが、それによって出生率も合計特殊出生率も下がり続けていた。人口増加はある程度抑制されていたのである。

 

 繰り返しになるが、「晩、稀、少」は以下の意味である。

 

晩:男は25歳、女は23歳まで結婚しない。女は24歳まで子供を産まない。

稀:子供を産む間隔を4年くらい空ける

少:子供は2人以内にする。

 

 この政策は一定の効果はあった。しかし、人口が増える勢いは止まらなかった。これでも人口が急速に増加しているのなら、更に一歩進んだ人口抑制政策が必要なはずである。さらに一歩進んだ抑制政策は、結婚年齢を更に上げ、産める子供を一人にするしかない。

しかし、そこまでの政策はとられなかった。その政策を阻害する要因は、主に以下の3点が考えられる。

 一つ目は毛沢東である。毛沢東の人口に対する考えは一定していないが、少なくとも全面的に無条件で人口抑制を肯定していたわけではない。鄧小平や陳雲、李先念らが人口抑制を主張するのに対して、毛沢東は少なくとも同調はしていなかった。そして、時には明確に反対を表明した。馬寅初の新人口論に反対したのが典型的である。

 二つ目はマルサス主義である。社会主義体制において、資本主義社会の人口法則であるマルサス主義を受け入れることはイデオロギー上できないことであった。従って、賛成派が「マルサス主義ではない」といって人口抑制をしようとするのに対して、反対派は「マルサス主義だ」として反対するわけである。

 三つ目は、中国の伝統的な人口観である。人口が多いのは良いことだとする考え方が、特に農村には根強くあった。

一つ目の要因である毛沢東は1976年に亡くなった。「二つの全て」で毛沢東路線を継承しようとした華国鋒も、次第に鄧小平に権力を奪われてゆく。これにより、一つ目の阻害要因はなくなった。

 以降、「一人っ子政策」が始まるまでを順番に見てゆくが、それは基本的には残りの二つの阻害要因を克服していゆく過程だと言える。