(9-11)1979年後半 安徽省の状況と十一期四中全会 | 中国について調べたことを書いています

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1.中国広東省の深セン経済特区の成立過程
2.香港・六七暴動
3.農業生産責任制と一人っ子政策
4.浦東新区から雄安新区へ
5.尖閣問題の解決策を探る
6,台湾は国家か

 

 1979年の後半期、安徽省の農村は包産到戸を含む各種の生産責任制が広まっていった。

1979年末には、生産責任制を実施している生産隊は、以下の割合だったという。

 

包産到組 22.9%

包幹到組 16.9%

包産到戸 10%

包幹到戸 10%

(唐正芒p27

 

 半分以上の生産隊がなんらかの形で生産責任制を実施しており、更に全体の2割が家庭にまで請け負いをさせていたということになる。一方、こうした中で、実際に農民の積極性が引き出されたのであろうか。安徽省全体の穀物生産量を見てみると、1978年が136億斤だったのに対して1979年には160億斤と、24億斤の増産となっている。(唐正芒p27

食糧増産が、必ずしも農民の積極性を示すものではないが、食糧が増産されたということは、何らかの形で責任制がうまくいったことを示すと考えてもよいのではないか。

 

 安徽省鳳陽県小崗村では、1979年の一年間にわたり、大包幹を行った。このことは県や地区にも伝わって、大きな問題になった。1979年12月には鳳陽県委員会の反対派が厳宏昌を批判した。しかし12月27日に地区委員会の王郁昭は小崗村の試みを認めた。これにより小崗村の包産到戸は一定の後ろ盾を得たことになる。(万里190)これについて、万里は後にこの試みについては知っていたと述べている。しかし、黙認していたという。(独木桥上走出阳关道 万里谈当年安徽农村改革

 

 1979年9月25日から28日に十一期四中全会が開かれ、9月28日に1年前の11期3中全会の『農業発展を加速する若干の問題についての決定(草案)』(中共中央关于加快农业发展若干问题的决定(草案)が、若干の修正をして草案の文字がとれて、正式な『決定』として通過した。(37号文件ともいわれる)

http://www.china.com.cn/aboutchina/data/zgncggkf30n/2008-04/10/content_14814063.htm

 1年前の「3つの可以」「2つの不許」の部分は、以下のように修正されている。

 

「定額で労働点数を記入してもよいし、時間による労働点数に評価を加えてもよいし、また生産隊での統一決算で分配をすることを前提のもとで包工到組や生産量に連動した労働報酬の計算をしてもよいし、超過分の奨励をしてもよい。分田単幹は許さない。なんらかの副業生産の特殊な必要性がある場合と、辺境の山間地で、交通が不便な一戸建てを除いて、包産到戸をしてはならない」(下線は引用者)

 

「3つの可以」はそのままである。しかし、「2つの不許」(分田単幹は許さず、包産到戸も許さない)が修正されている。すなわち「分田単幹は許さない」はそのままであるが、「包産到戸」は「してはならない」(不可以)と表現が若干やわらかになり、また、辺境の山間地などの例外が設けられている。この修正は、1年前に四川省の趙紫陽が提案したが採用されなかったものであるという。(杨胜群,陈晋主编亲历者的记忆,历史转折1977-1978三联书店,2009p.244)これが1年たって採用されたわけである。これは大きな進展と見るべきだろう。

しかし、この時点でもまだ賛成意見と反対意見があり、脱毛沢東路線、脱集団労働という方向にまっしぐらに進んでいるわけではないことはわかるだろう。