(9-5)「借地度荒」(安徽1978上半期) | 中国について調べたことを書いています

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 1978年2月3日、人民日報に「一份省委文件的诞生《一份省委文件的生》という記事が載った。この記事では、安徽省の「省委六条」を以下のように高く評価している。

 

「この文書は広く幹部と社員民衆の擁護と歓迎を深く受け、社員は『毛主席の革命路線が戻ってきた』と嬉しそうに話した。安徽省委員会のこのような実際の状況に深く入り込み、調査研究を重視し、民衆路線を歩み、真剣に党の政策を徹底して実現しようとすることは、党の優良な伝統とやり方を回復し発揚するとても良い見本である」

 

 中央で「省委六条」が評価されたこの時期には、安徽省定遠県では農民の「自主権」を重視した取り組みが始まっていた。

 定遠県も非常に貧しく、土地はあるが人が少ない地区であった。また、水資源が少なく干害の多い地区でもあり、1977年にも干害に見舞われていた。そこで、万里の指示により、国家の計画のもとでという条件ながら、その生産隊の自主権を重視して、その土地に合った作物を植えさせた。「無闇な指揮」を避けたのである。これには反対意見もあったという。しかし、実際には農業生産量は増加した。

この試みもまた中央で評価されることとなる。1978年2月16日の人民日報「生産隊に自主権があれば農業生産は増える 安徽省定遠県で生産が落ちぶれた状況は改善されたことの調査」(生产队有了自主权农业必增产 安徽定远县改变农业生产落后状况调查)という記事で評価されたのである。

こうした状況に、後述する「真理標準論争」で、実践を重視することが重要だとされたという事情も加わり、包産到戸への方向性が見えてくることになる。

 

1978年3月17日には万里の書いた記事も人民日報に載せられている。「真落党的经济政策」である。この中で万里は徹底して四人組を批判している。そして、安徽省の困難の原因は四人組にあったことを強調している。そして、四人組の極左路線をやめて、毛沢東の路線に戻るべきことを述べる。ここで注意しておくべきことは、この記事では万里も「農業は大寨に学べ」運動を肯定しており、人民公社も肯定していることである。否定しているのは四人組だけなのである。これは、ある意味では妥協的な態度とも言えるし、反対派の攻撃をかわす意図があったのかもしれない。実際には包産到戸へと至る路線を取っている万里の考えは、集団の労働と集団の利益を重視する「農業は大寨に学べ」運動の考え方とは相いれないものであった。

 万里は1978年初めのころに以下のように考えていたと述べている。

 

「実際、その頃には私たちは”大寨に学べ”というのを既に放棄しており、行動でもって大寨の批判を始めていた。大寨のようなやり方では農民の積極性は引き出すことはできず、かえって農民の積極性を抑え込んでしまう。だから大寨のようなのを続けることはできず、古いものは改め、新しい政策を用い、新しい方法で農民の積極性を引き出さなければならないと考えた。」(“独木”上走出阳关道──万里当年安徽村改革

《决策》,1998 (6) :4-9

 

 実際にこれ以降、安徽省では、万里が公然と人民公社と「農業は大寨に学べ」への批判を始めた。宋(p226)によれば、1978年春、党校の工作会議で万里は「何をもって大寨に学べを歪めたとか、大寨に学び間違えたとか言うのだ。大寨そのものが正しくないのだ」と述べたという。

 こうした事情は、1978年にも安徽省で大きな干害が起きたことで、更に変わってくる。

この干害の対策として、万里は「借地度荒」という政策を打ち出した。「土地を借りて、凶作を乗り切る」とでも訳されるか。集団耕作用の土地の一部を社員に貸し出し、社員がそこに自由に耕作をしてもよいことにした。そして、そこでの収穫は統一買い上げの対象にはせず、耕作者のものとしたのである。これは災害を乗り越えるための一時的な措置として行われたものではあるが、人民公社の根本的な原則に反するものであった。

こうして干ばつを乗り切ったが、1979年に入っても農民たちはこの借りた土地を返そうとはしなかった。そして、その土地を使って家庭での請け負いをさせることを要求したのである。これは包産到戸を要求したのに等しい。これに対して省はそれに反対しようとはせず、「石に触りながら河を渡る」(摸着石头过河)、つまり少しずつ慎重に包産到戸を進めてゆく態度を取った。1961年の「責任田」のやり方同様、まず一部の地域で試験的に実施した。

从“借地度荒”到包》《第一财经

https://finance.sina.com.cn/roll/20080625/02502295323.shtml

 

これが生産隊での責任制から更に一歩進める形で、包産到戸、つまり家庭ごとに請負耕作をおこなうことに繋がっていく。

 

 こうした動きは安徽省の他の地域にも広がってゆく。

以下は1978年5月13日に人民日報に載った記事である。安徽省六安県で、「省委六条」に従い、自主権を尊重したという内容である。(人民日1978.05.132 作者:田文喜 六安正确理尊重生产队自主行上级计划之的关系 干部社员积极种足种好双季稻)

 

「昨年に冬から今年の春にかけて、(安徽省)六安県は『農村人民公社条例』と『省委六条』について真剣に学び、四人組とその安徽省での代理人が播種計画において生産隊の自主権を押しつぶして、無闇な指揮と強制命令を行った大罪を深く批判した。そして、上級の計画の実行と生産隊の自主権尊重との関係をいかに正しく処理するかについて考え方を統一し、認識を正した。県委員会は、かつては事務所に座って計画を立てて、上から下へと押し付けるやり方をしていたが、この誤ったやり方を変え、下から上に計画を出させて、上と下で計画について相談してゆくというやり方に変えた。区、公社、大隊、生産隊の間で何度も話し合い、最後に全県の播種は二季の稲65万ムーという計画を制定した。」

 

 これは、従来の一方的な上意下達である「無闇な指揮」をやめたということである。公社の計画の策定に生産隊が入って、そこで立てた計画を更に上(区)と話し合って決めるというやり方を取ったのである。こうしたやり方が、人民公社の根本的な指揮系統に反するやり方であることは言うまでもない。それが行われたことを「正しい処理」だと評価したわけである。

 

 なお、1978年2月3日の「一份省委文件的诞生《一份省委文件的生》のころに鄧小平は安徽省のやり方に関心を持ち始めたようである。鄧小平がネパールへ行く途中でこの記事を読み、立ち寄った四川省で当時四川省委第一書記であった趙紫陽と安徽省の試みについて話したという。鄧小平は安徽省の「省委六条」を趙紫陽に勧め、趙紫陽はのちにこれにならって、農村経済の回復と発展のための「十二条」を制定したという。

 

 

小平与安徽村改革

http://ah.people.com.cn/n/2014/0821/c358327-22064246-2.html

 

中国共党新闻网>>料中心>>图书连载>>1978史不再徘徊>>第三章 大梦

http://cpc.people.com.cn/GB/64162/82819/127501/128816/7592264.html?ol4f