(9-3)農村の状況の背景、文革の終了、鄧小平の復活など | 中国について調べたことを書いています

中国について調べたことを書いています

1.中国広東省の深セン経済特区の成立過程
2.香港・六七暴動
3.農業生産責任制と一人っ子政策
4.浦東新区から雄安新区へ
5.尖閣問題の解決策を探る
6,台湾は国家か

前回述べたように、この時期の中国は混乱の中にあった。

確かに国全体でいえば、食糧生産量は増加を続けていた。時間がかかったとはいえ、1976年には一人当たりの食糧生産量も1956年のレベルにまで回復し、それ以降は過去最高を記録し続けていた。しかし、それは飢餓寸前の状況を脱しただけであり、国全体に充分な食糧があったわけではなかった。世界的に見てもまだ中国は最貧国のレベルだった。特に、貧しい農村ではこの時点でも食糧不足があり、干ばつや洪水などの天災などがあった場合は、飢餓状態に陥ることもあった。食糧のない時期には物乞いをして家族を養う農民もいたという。

先に見たチェン村や北京郊外の人民公社で見られたような混乱や停滞の状況は、以下の様に表現されることが多い。

 

1、生産の大呼隆(掛け声だけ大きく、実際の効果は少ない)

2、分配においての大鍋飯(一平二調、悪しき平均主義)

3、根拠のない無闇な指揮(客観的な経済的な法則を無視した指示)

4、形式主義

5、浮誇風(誇張の風潮、虚偽報告)

 

 これらにより、農民の生産に対する積極性は大いに失われていた。農民の潜在的な能力を充分に生かせていなかった。こうした混乱は、もちろん人民公社による集団耕作、「農業は大寨に学べ」運動の限界、文化大革命による派閥争いや権力争いなどの原因によるものである。

 そして、中央政府の威勢のいい掛け声や理想的、楽観的な言論に対して、農民が抱いていた本音は以下のようなものだったであろう。

 

1.国や集団の利益を重視し、農民個人の利益を軽視している

2.農民の負担の増加を考慮していない。思想により重労働を克服することができるという考えには無理がある

3.派閥争いや権力闘争により、相互の信頼関係が失われ、疑心暗鬼になっている

4.農民の事情や考えを考慮しないリーダーの指揮や指示に対する不信感とあきらめ

5.生活苦、貧困に耐えがたい

 

 こうした不満は、主に農村社会主義教育などの思想教育によって抑え込まれていた。そしてその思想教育の中心にあったのが、社会主義思想であったことは間違いない。社会主義化といった路線にせよ、階級闘争という考え方にせよ、いずれにしても経済や農民の生活よりも全体を重視する考え方である。そうした考えに基づいて文化大革命を発動し、押し進めたのが毛沢東であることも間違いない。

 しかし、それを一方的に毛沢東一人の問題に帰するものとするのも一面的であろう。病気がちな晩年の毛沢東に代って、この時期に先頭に立って文化大革命を推し進めたのは四人組(王洪文、張春橋、江青、姚文元)であった。四人組はしばしば毛沢東とも対立したし、四人組の言動は多くの場面で毛沢東すら制御できなくなっていた。

 

 いずれにせよ、農民の不満の元となるものは、毛沢東と四人組に起因するものであった。しかし、その毛沢東は亡くなり、四人組も逮捕され失脚した。華国鋒は毛沢東路線の継続を主張したが、権力基盤の弱さから、毛沢東や四人組のような強力なリーダーシップを発揮することはできなかった。

 また、文化大革命は1976年10月に文革急進派である四人組が逮捕された時点で事実上終了していた。この時点では、文革を支持する勢力はまだ残ってはいた。華国鋒は自らの権力の根拠である毛沢東路線を堅持せざるを得ず、革命の継続を訴えていた。ただし、その文化大革命も、1977年8月の共産党11回大会で、終結が宣言された。この宣言によって文化大革命は名実ともに終了した。

 ちなみに、華国鋒はこの終了宣言を「第一次」文化大革命の終了であるとした。まだ、継続する可能性があることを示そうとしたのだろう。この時点では人民公社はまだ残っていたし、集団農業も継続されていた。「農業は大寨に学ぶ」運動も継続されていた。毛沢東路線は、まだ完全には終了していない。華国鋒はそのことを示したかったのであろう。

 しかし、明らかに流れは華国鋒の思うような方向には行っていなかった。

 

 第一次天安門事件を機に1976年4月7日に全ての職務を失った鄧小平が、1977年7月の第10期3中全会で党ナンバー3に復帰すると、脱毛沢東路線の動きも加速された。鄧小平は華国鋒の権力基盤の弱さなどを突いて揺さぶりをかけ、発言力を強めてゆく。

 一方で華国鋒は毛沢東路線の継続を訴え、そして文化大革命や経済の混乱を四人組の責任とする方向で論を進めた。確かに文化大革命の時期は国内が大いに混乱した。そして、それにともなって経済的にも低迷した。しかしそういった混乱や低迷の原因は、すべて四人組の「極左」路線によるものであるとしたのである。

 たとえば、1977年8月12日に華国鋒が行った「第十一期人民代表大会の政治報告」(十一大上的政治告、一九七七年八月十二日告,八月十八日通では、これまで通り毛沢東を「最も偉大なマルクス主義革命家」であると褒め称え、一方で四人組を反党集団として非難し、それを打倒したことを「路線闘争の偉大な勝利」としている。

http://www.chinadaily.com.cn/dfpd/18da/2012-08/29/content_15714533.htm

 

 そして、農業についても、毛沢東の主導した「農業は大寨に学べ」運動が間違っているとはされていないし、人民公社が否定されたわけでもない。実際に、このあとも大寨県の普及には力を入れており、1976年には123、1977年には284の新たな大寨県が作られ、全国では合計723の大寨県があるとしている。これは第1回全国「農業は大寨に学べ」会議で示された「1980年までに全国の3分の1の県を大寨県にする」という目標を、前倒しで達成されたものだとしている。(建国以来农业合作化史料汇编  黄道霞主,p868-869

  こうしたことから見ても、この時点で「農業は大寨に学べ」運動の動きが鈍化したわけではない。また人民公社制度が揺らいだわけでもない。「三級所有、隊為基礎」に基づく集団耕作は維持されており、包産到戸や包産到組のような生産責任制が認められたわけでもない。