1979年8月末のこと。

 

三人の大学生が、台湾東部、標高3600mの奇莱山の登山に出かけました。

しかし、帰宅予定日を過ぎても、三人は帰ってきません。

 

三人の家族達は、慌てて警察に届け出を出し。

 

そこから、大掛かりな捜索が始まります。

 

 

かつてより、その奇莱山では数多くの奇禍があり。

 

日本統治時代には、ある日本人大尉が登山中に原住民に撲殺されたり。

つい前年も、軍人学校の生徒達が集団遭難死を遂げたり。

 

「黒色奇莱」という綽名がつくほど、危険な山。

 

すぐさま、捜索隊が投入されます。

 

 

そして捜索開始直後、その捜索隊は重要なものを発見します。

 

登山道のすぐ脇に散らばる、三人の登山道具。

 

そこには、登山の際には何より必要である筈の、

登山ストックや、パンなどの食料が含まれており。

 

山奥の険しい場所で危機に陥り、

とりあえず身軽になりたくて荷物を捨てた、というのなら分かりますが。

 

そこは安全な登山道。

何故、この場所で、大事な荷物を捨てたのか。

 

捜索隊は、そういう疑問を抱きますが。

 

 

取るもとりあえず、その近辺の捜索を続けていると。

 

散らばる荷物のすぐ傍で、足跡を発見します。

 

それは、地面にほとんどめり込んで居ない、浅いものです。

 

荷物を背負っていれば、もっと深い足跡になる筈。

間違いなく、荷物を捨て、身軽になった彼ら三人のものだ。

 

 

捜索隊は急いでその後を追いますが、

その足跡は、森の中で、途絶えてしまい。

 

手がかりは失われてしまいました。

 

何故登山道を離れて森の中に行ったのか?

誰かに追われていたのか?

 

でも、彼らのもの以外に、足跡などはない。

 

何に追われていたというんだ?

 

疑問はさらに深まります。

 

 

その後。

足跡の途絶えた森を中心に、捜索は続けられますが。

 

何の成果もあげられないまま、時間だけが過ぎて行きます。

 

高山とは言え夏の盛り、

夜はそこまで冷え込みはしない。

しかも、若い元気な男性達。

 

食料を持っていないだろうとはいえ、

まだまだ、どこかで生きている可能性はある。

 

そう信じて、捜索隊は懸命に捜索を続けます。

 

 

 

そして、数日後。

捜索隊は、また新たな発見をします。

登山用ジャケット、一冊のノート、登山証。

 

上着に関する家族の記憶や、登山証に記された名前から、

それらが、遭難者のものであることは確定したのですが。

 

ただ、分かったことは、それだけです。

 

ノートは新品であり、何も書かれていない。

 

ジャケットも、破れたりしている訳でもなく、

誰かに襲われたような形跡はない。

 

しかも、見つかったジャケットは二つのみ。

周辺のどこを探しても、

残り一人のジャケットは見当たりません。

 

荷物同様、ジャケットは自発的に脱ぎ捨てたのか?

でも何のために?

 

服がそろっていないということは、

三人は一緒ではなかったのか?

どこかではぐれてしまったのだろうか?

 

 

まるで訳が分からぬまま、さらなる捜索を続ける中。

 

 

衣類の見つかったすぐ近くで、

捜索隊はもう一つの発見をするのです。

 

 

 

――地面に突き刺さった、三膳の箸。

 

 

 

 

 

 

二か月以上、延べ千人以上の捜索隊の活動も空しく。

 

三人の行方はおろか、

それ以上の痕跡を見つけることも出来ず。

 

秋深き十一月、捜索は打ち切られてしまいました。

 

それから既に四十年以上。

今にいたるまで、

彼らの遺体が見つかるようなこともありません。

 

 

 

ただ。

 

それから二十年余りが過ぎた2000年頃、

一人の登山客が、奇莱山で撮影した写真の中。

 

周囲に誰もいないことを確認した上で、自分だけを撮影した筈なのに。

彼の背後、木の陰に、見覚えのない人影が、一つ。

 

 

ピントはあっておらず、しかも影になっていて、顔立ちもはっきり見えませんが。

 

 

その人影が身にまとっているジャケットは、

そっくりだったそうです。

 

後の捜索の中でも唯一発見されなかった、

あの三人組の一人が着ていた、

 

 

紅いジャケットと。