東京に住んでいると なかなか こうした良心的地方紙を見ることがありませんが・・・

 

『愛媛新聞』2020/5/3

【社説】コロナ禍と憲法 一人一人の尊厳最大限守らねば

 すべて国民は、個人として尊重される―。国は個人の自由や権利を最大限重んじなければならないと憲法で規定している。基本的人権の尊重は憲法の根幹である。

  しかし今、新型コロナウイルス特措法に基づく緊急事態宣言の発令で、国民は自粛が余儀なくされ、自由な生き方や生活は大幅な制限下にある。感染拡大は憲法の根幹も大きく揺さぶっている。

 憲法施行からきょうで73年。私権の制限は命を守るための例外でなければならず、乱用されぬよう警戒がいる。あの戦争と引き換えに手にし、大切にしてきたものを一時的でも手放さざるを得ないという事態の重みを胸に、節目の日を過ごしたい。

 権力側には私権制限への謙虚さが求められる。だが政権や自民党の姿勢はそれに真っ向から反するものであり、看過できない。感染症対策と絡め、この機会に改憲して緊急事態条項を新設すべきだとの発言が相次ぐ。安倍晋三首相も国会の憲法審査会で議論するよう呼びかけた。

 政府が発した緊急事態宣言は休業要請に従わなくても罰則がない。実効性を問題視し、私権を制限できる強い権限を政府に与えるべきだとの理屈である。改憲を悲願とする首相の総裁任期があと1年に迫り、議論を進めたい党内事情も透ける。

 しかし、強制力がなくても国民のほとんどは自粛や休業要請に応じている。不十分だというのなら一足飛びに改憲を目指すのではなく、まずは法律の問題点を洗い出し、必要な改正を図るのが道理ではないか。特措法には休業補償の仕組みがなく、事業者からも都道府県からも不満が強い。政策の不備を憲法のせいにすることは許されない。

 緊急事態条項は「劇薬」にたとえられる。大規模災害や武力攻撃が起きた際、政府の権限を強化して例外的な措置を講じる規定を指す。議会の承認なしに法律に代わる政令などを発令できる。海外では憲法に明記する国も存在するが、日本は戦前の反省を踏まえ、私権制限を極力避けようと、現行憲法制定時に規定しなかった。そうした歴史的経緯も省みるべきだろう。

 政権に求められるのは不急の改憲ではなく、憲法の理念に従って目の前の課題解決へ全力を傾けることである。この瞬間も個人の尊厳に関わる生存権が脅かされている。医療崩壊を防ぐため現場の支援を充実させなければならない。収入が絶たれ、困窮する人にも早く手を差し伸べるべきだ。「教育を受ける権利」も長期化する休校で大きく損なわれた。子ども同士の格差を広げない手当てがいる。

 憲法は主権者である国民が国家権力に歯止めを掛ける性格を持つ。縛られる側の政権が改憲で国民の権利を妨げることがあってはならない。憲法の精神に向き合い一人一人を尊重しながら、困難を乗り越えるために誠実に手を尽くす。首相にはその姿勢を強く求めたい。


『中日新聞』2020/5/3

【社説】コロナ改憲論の不見識 憲法記念日に考える

  「憲法改正の大きな実験台と考えた方がいい」-自民党の大物・伊吹文明元衆院議長が言ったのは一月三十日でした。政府が新型コロナウイルス感染症対策本部を立ち上げた当日です。安倍晋三首相も「緊急事態条項」の言葉を挙げて、国会の憲法審査会での議論を呼び掛けていました。

 緊急事態条項とは何でしょう。一般的には戦争や大災害などの非常時に内閣に権限を集中する手段とされます。暫定的に議会の承認が省かれたり、国民の権利も大幅に制限されると予想されます。明治憲法には戒厳令や天皇の名で発する緊急勅令などがありました。憲法の秩序が一時的に止まる“劇薬”といえそうです。

危機感ゼロだったのに
 でも、一月末ごろ、政府に緊急事態の危機感は本当にあったのでしょうか。むしろコロナ禍は「改憲チャンス」とでもいった気分だったのではと想像します。

 なぜならコロナ対策は各国に比べて後手後手。政府は東京五輪・パラリンピック開催にこだわっていたからです。まるで危機感ゼロだったのではないでしょうか。

 つまりは必要に迫られた改憲論議などではなく、「コロナ禍は改憲の実験台」程度の意識だったのではと思います。それでも、改憲の旗を掲げる安倍政権には絶好の機会には違いありません。

 実際に国会の憲法審査会では与党側が「緊急事態時の国会機能の在り方」というテーマを投げかけています。

 「議員に多くのコロナ感染者が出た場合、定足数を満たせるか」「衆院の任期満了まで感染が終了せず、国政選挙ができない場合はどうする」-。

 こんな論点を挙げていますが、「もっともだ」と安易に納得してはいけません。どんな反論が可能なのか、高名な憲法学者・長谷部恭男早大教授に尋ねてみました。こんな返事でした。

「非常時」とは口実だ
 「不安をあおって妙な改憲をしようとするのは、暴政国家がよくやることです」

 「大型飛行機が墜落して、国会議員の大部分が閣僚もろとも死んでしまったらどうするかとか、考えてもしようがないこと」

 確かに「非常時」に乗じるのが暴政国家です。ナチス・ドイツの歴史もそうです。緊急事態の大統領令を乱発し、悪名高い全権委任法を手に入れ、ヒトラーは独裁を完成させたのですから…。

 衆議院の任期切れの場合なら、憲法五四条にある参議院の「緊急集会」規定を使うことが考えられます。「国に緊急の必要があるときは、参議院の緊急集会を求めることができる」との条文です。この点も長谷部教授に確かめると「『できる』が多数説です」と。

 つまりコロナ禍を利用した改憲論はナンセンスと考えます。不安な国民心理に付け込み、改憲まで持っていこうとするのは不見識です。現在、国会議員に感染者はいません。ならば今後、感染しないよう十分な防護策を取ればよいだけではありませんか。

 それにしても明治憲法にはあった緊急事態条項を、なぜ日本国憲法は採り入れなかったのでしょう。明快な答えがあります。一九四六年七月の帝国議会で、憲法担当大臣だった金森徳次郎が見事な答弁をしているのです。

 <民主政治を徹底させて国民の権利を十分擁護するには、政府一存において行う処置は極力、防止せねばならない>

 <言葉を非常ということに借りて、(緊急事態の)道を残しておくと、どんなに精緻な憲法を定めても、口実をそこに入れて、また破壊される恐れが絶無とは断言しがたい>

 いつの世でも権力者が言う「非常時」とは口実かもしれません。うのみにすれば、国民の権利も民主政治も憲法もいっぺんに破壊されてしまうのだと…。金森答弁は実に説得力があります。

 コロナ禍という「国難」に際しては、民心はパニック状態に陥りがちになり、つい強い権力に頼りたがります。そんな人間心理に呼応するのが、緊急事態条項です。

 しかし、それは国会を飛ばして内閣限りで事実上の“立法”ができる、あまりに危険な権限です。

法律で対応は可能だ
 ひどい権力の乱用や人権侵害を招く恐れがあることは、歴史が教えるところです。言論統制もあるでしょう。政府の暴走を止めることができません。だから、ドイツでは憲法にあっても一度も使われたことがありません。

 コロナ特措法やそれに基づく「緊急事態宣言」でも不十分と考えるなら、必要な法律をつくればそれで足ります。罰則付きの外出禁止が必要ならば、そうした法律を制定すればよいのです。

 権力がいう「非常時」とは口実なのだ-七十四年前の金森の“金言”を忘れてはなりません。