『海馬』47号に掲載されているのは、小説4、俳句1、エッセイ1の下記6作品です。

〈小説〉

・宮本義則 『骨になっても帰れない』(40頁)

・山下定雄 『名付けえぬ物達』(12頁)

・永田祐司 『ライカの涙』(29頁)

・戸田なお 『恋の予感』(12頁)

〈俳句〉

・山下定雄 『冬の螢』(2頁)

〈エッセイ〉

・千佳 『神戸生活雑感』

ー日本と台湾の文化比較ー ( No.2729)(11頁)

 

各作品につきまして、以下順にごく簡単なあらすじと感想を記します。(ただし俳句『冬の螢』と自作『ライカの涙』の感想は省略)

 

ハンセン病という重いテーマに正面から取り組んだ力作

 

◆宮本義則『骨になっても帰れない』(40頁)


〈平成十年に熊本地裁にハンセン病国家賠償請求訴訟が起こされ、その弁護団から世論盛り上げのため岡山の愛生園自治会長の浜田洋一に原告者探しの相談があった。浜田は立場上自分では動きにくいのでかつて共に入所し、今は神戸にいる上野浩二にそれを依頼した。上野は話を聞いて過去を振り返る。

十三の時ハンセン病と診断され、列車で岡山駅に着いてからトラックに乗り、さらに島まで船で運ばれ愛生園の少年舎に入った。本名は野田だがそれ以降ずっと上野と名乗った。そこで三つ年上の浜田と出会う。園内では肉体労働や重症患者の介護作業などがあった。浜田によれば昭和二十二年にプロミンという特効薬が導入されて治る可能性が生まれ、感染しないと言われたが、職員たちからは相変わらず汚れ者扱いされ、島から逃げて溺れ死んだり監房に入れられた。最大の人権侵害は断種と堕胎であった。また自分の肉体に強い嫌悪を抱き、“生ける屍”となる者もいた。浜田は青年団に入っていたが活動は活発ではなく、時間を無駄にしていたので上野は彼に野球を勧め、園内でリーグ戦が始まった。他にも卓球や、テニス、海釣りを楽しむ者が出てきた。文化系では短歌や俳句作り、楽器の演奏などに努力する者がいた。昭和二十八年、らい予防法(新法)が成立し、愛生園にも二年後に高等学校が開校する。上野は十八、浜田は二十一だったが、勉強して隣に併設された邑久高等学校新良田教室に入学した。学生数が増えるとクラブ活動も盛んになり、手漕ぎボート三艘が寄贈され、二人はそれに乗って遊んだ。しかし楽しいことばかりではなく、結婚できないのを苦に自殺した者もいた。教師にも差別と偏見があり、消毒液の入った洗面器が常に入口に置かれ、島からの外出も認められなかった。しかしその後ハンセン病が治る病気になったことで、新良田教室の学生数も年々減り始める。二人は社会復帰の夢を果たすため、機能と見た目の回復を心がけて卒業式の日を待った。そして上野は神戸に就職口を見つけ、園を出る準備をしたが、神戸への切符を買いに岡山へ出る途中、バスの車掌から差別を受ける。浜田にその話をすると彼もそんな経験があるが挫けるなと言う。教師たちも就職面接ではうそを話すよう指導していた。二人は社会復帰がかなえられそうだが、彼らより以前に入所した重度療養者たちの将来は絶望的だった。こうした不自由者棟にいる人たちを何とかしようと園内に楽団を作ったり、絵や短歌、俳句などの活動を呼びかける人たちがいた。上野もできるだけ介助に出かけたが、そこで宇野という人は兄貴からもう家に帰ってこないでくれと言われたと話す。ようやく平成八年のらい予防法廃止以降、社会の目も変わり始め、園からも家に帰ってもいいと言われる。しかしあまりに長く隔離政策が続いたため、帰るに帰れないのが実状であった。

上野は二十四才で神戸電装という会社に就職し、倉庫係に配属されたが、なるべく同僚たちと話さないように仕事をした。二年後に調達係となり、他の人との連携が増えた。ある日、診療所からの注文書の単位ミスを連絡すると、三崎という看護師が礼を言いに来た。秋に社員クラブの文化祭を見に行くと、三崎と会い茶道部の茶室に誘われた。その後彼女からハイキングなどに熱心に誘われ、上野はこのままではまずいと思い、すべてを話そうと再度山のハイキングに行く。そして猩々池で過去を打ち明けた。看護師の彼女は長島の愛生園に行ったことがあり、母も看護師をしていて病気のことはよく知っているから心配しなくてよいと言われる。こうして二人の交際が始まり、一年後に結婚し子供が生まれた。一方浜田は大阪の会社に運転手として就職した。手足や目に後遺症が残っていたので息をひそめるようにしていたが、十年が過ぎたある日職場に噂が広がり、やむなく退職し愛生園に戻った。自治会に携わり、四十五の時役員になった。そして書記になってくれた新良田教室の後輩の林田という女性と結婚し、五十三で会長になっていた。

平成十一年、上野は浜田から裁判の原告になる依頼を受けたことを妻の和子に話し、引き受けることを伝えた。そして長島愛生園や邑久光明園の回復者たちが岡山地裁に提訴する。法廷で元患者や園長は自身の体験や優性手術、強制隔離の実態を生々しく証言し、医師もらい予防法は遅くとも昭和三十五年に廃止されるべきだったと訴えた。そして弁護団が主張した現場検証が実現し、入所者の生の声が裁判長に初めて届いた。上野も隔離政策が人権侵害にあたることやハンセン病に対する社会の偏見、死んでも故郷や家族の元に帰れない納骨堂のことを訴えた。平成十三年、熊本地裁で平成八年まで続いたらい予防法は昭和三十五年には違憲性が明白だったとして、国に賠償金支払いを命じる判決が言い渡された。この判決を得て、次に原告らは国に控訴の断念を迫るため、人間回復の橋として長島と本土を結び完成された邑久長島大橋を行進した。さらに東京へ行き、首相官邸前に座り込んだ。その結果、小泉首相は控訴を断念し、涙を浮かべて原告者たちと握手した。上野は家に帰り妻とその喜びを分かち合った。〉

 

この作品はハンセン病をテーマに、上野と浜田という二人の主人公の苦難の療養所内生活やその対照的な二人の社会復帰後の歩みなどをストーリーの軸として、国の不当な強制隔離政策のために苦しんだ人たちの実態に迫った力作と言えます。それは決して国の法律だけに関係する問題ではなく、社会や私たち個々人の偏見や差別意識の問題でもあることを訴えています。

いったん病気に罹ってしまうとあちら側へと強制的に隔離され、もうこちら側へは戻れないという、きわめて理不尽な運命が待ち受けています。戦後になってようやくプロミンという特効薬により治る病気となりましたが、薬の出る前に罹った後遺症の重い人たちにとってはその恩恵はほとんどなく、故郷にも帰れないといった悲惨な生活がその後もずっと続きました。このようにハンセン病の問題には、国の法律や薬の開発、さらには人々の根強い差別や偏見などが複雑に絡み合っています。ある意味では近年の旧優生保護法の問題とも関連するきわめて難しいテーマです。

国家への賠償請求訴訟裁判における原告探しを一つの糸口にしながら、その重いテーマと真正面から取り組み、最後まで書き通した熱量と筆力には今後も大いに期待したいと思います。ただ惜しむらくは中盤の高校卒業頃の園内活動描写に関して重複する箇所があったりするなど、もう少し細部まで丁寧な推敲がほしかったという印象があります。




私の躰に茸のように生えてくる造型物を、手術で取り除く虚虫たち


◆山下定雄『名付けえぬ物達』(12頁)

 

〈三つ東隣の部屋の青年は、病院内の敷地の木に半ば同化したようにより添って詩作にふけっているという。私はそのさまを観てみたいとおもった。その途中で幾度かあの女に出会ったが、もう惹きつけるものはない。私は自由時間のほとんどを青年の観察についやした。木から離れて廊下で行きあふとざらざらとした孤寥感をただよわせている。木には人間の住居に用途されるにいたる木の哀しみにかさなる青年の哀しみが流露されているにちがいない。先生は、女性問題をやりおおせたいのなら出所してからにしてくださいねと言う。私が空とぼけの顔つきをしていたのは、以前から女性を前にしてまったく役立たずの状態にありそうだということはわかっている気がしたから。口が裂けてもいい出せるものではない。

カンナがこのごろ姿を見せず、留守の間に他の男を引きいれていはしないかと疑惑がうまれる。あれで色白でいい女なのだ。想念はチロチロと燃えあがる蒼白い炎となった。私は他人に強いことが言えない。曇った一点があり、自分だとおもわれる個所がはっきりしない。うす闇とも仄明りともしれない空間をただよって、ベールに覆われているようだ。その反動で単独になったときは憔悴を手にすることになる。私の投げる言葉は反響してゆきある輪郭をなして私に戻ってくる。それは見るも悍ましい真実が嘘として返礼をされる。偏屈であるといわれる所以のようなのだ。私はじっとしていると異なもの奇なもの妖なものを自ら招きよせ増殖させそうになる。

夢の中の光景で、かって接触したことのある死んでいった人達が躰のいたるところに茸のように生えてくる。私という根幹に接ぎ木されたように。出自も消息も来歴もわからないものがむやみ矢鱈に生えてくるのは重くてうっとおしくて不自由この上ない。私の苦境を察知したのか、大挙押しよせてきた虚虫の群れによって救助されることになった。その辺にいる変哲もない或る虫のことである。手ですくって呑むのは今では水と光だけで、それを教えてくれたのが虚虫である。その虚虫が公園の森でからだにゴミが附着してじたばた困窮していたときに救ったことがある。それが恩義はここぞとばかり大挙して飛来してきた。彼が、この軍隊の指揮官であったのか、どうかはわからないが。クリーン作戦であることを宣言しているのだと承知した。それから大手術が始まった。私の躰には奇怪な造型物がうようよしているので一挙に殲滅さすことは容易ではない。私はあれらの物達が皆無になってしまった場合に、どのような異変がおこるのかとたずねると、太陽の光がこんなに瑞々しく透明物の底の底まで照らす新世界ではないですか。私はまるで上の空のようにきいている。そして虫の祭りのような狂騒の中で手術を受けた。私の躰から奪いとられてゆく名づけようのない物達にある種の惜別の感情が禁じえなかった。中にはまだ可愛らしくて愛玩物めいたものまであった。虚虫の一行は唸りあげてたちまち飛行していった。私の躰は、いや心までもがつるつるすべすべぴかぴかになってしまった。それはすぐさまではなく極くかんまんな移りゆきの中で顕われてきた。〉

 

『合歓の花』『不能者』『エイリアン』と続く一連の作品の中に位置づけられる小説です。

合歓の花の下で出会った少女のことで同居人カンナに精神的ダメージを与えたシニア男性の私は、一人治療のためサナトリウムに入院します。そこで女性看護師へ恋文を送り情交を果たそうとしますが、不能に終わります。そして主治医と面談し、自分のことを他人事のように冷静に観てしまう一方で、熱狂している自分がいる。それを俯瞰する第三者、さらにまた別の他者が分身のようにいる。それはある日どことも知れない青空から飛来して一発の弾丸のように私に打ち込まれたもので、それがたとえグロテスクなエイリアンだとしても愛しいと話す。その続きがこの『名付けえぬ物達』です。

前半は木と同化したように寄り添って詩作する青年があらわれ、私はそれを観察します。もうあの女性看護師に惹きつけられるものはありません。しかし同居人カンナが来なくなると、疑惑の炎がチロチロと燃え上がります。そして自分が他人と接するときに、うす闇とも仄明りともしれない空間をただよい、そこで投げる言葉が反響して真実が嘘となって返ってくる。それが偏屈といわれる所以で、じっとしていると異なもの奇なもの妖なものを自ら招きよせ増殖させそうになる。そして夢の中で、かって接触したことのある死んだ人達が躰のいたるところに茸のように生え、重くて不自由この上ないと語ります。その苦境を察知して飛来してきたのが、公園で附着したゴミを取り除いて助けてやった虚虫の群れです。彼らの一糸乱れぬ見事な手術ワークによりそれらの増殖した造型物はすべて取り去られ、私は躰も心もつるつるすべすべになります。

このように見てくると、この作品はある意味では前作と共通しています。ある日弾丸のように打ち込まれたエイリアンと、躰に茸のように生えて成長する名付けえぬ物達とは、いずれも私にとっての精神的分身であると言えます。それらは私にとって「異なもの奇なもの妖なもの」ではありますが、また愛しいものでもあります。それらはつまるところ私たち人間の自己意識と他者意識の交錯するところから生まれる一つのメタファーではないかと思われますが、はたしてそれが取り除かれた後に何が起こるのでしょうか? それはまた次作へと続きそうです。

 


昭和のモノクロ時代を生きた、あるカメラマンの波乱の生涯


◆永田祐司『ライカの涙』(29頁)

 

〈私の手元に、今から五十年前頃の昭和の時代に、東京馬込のある家族とその周辺を写した古いモノクロ写真帖がある。かつて一緒に仕事をした千堂というカメラマンのものである。その中には彼の祖母や家族、とりこわしを待つアパート、紙芝居、法事などの風景が載っている。彼は小学生頃から写真を撮り出し、自分で現像もしていたようだ。私はかつて平成五年頃、すでに氏のいないその馬込を訪れたことがある。写真帖の時代の面影はもうなく、近代的なビルが建ち並ぶ街に変貌していた。富士見台中学の近くまで行ったが、富士山も見えなかった。

昭和四十八年に京都の私大を卒業した私は、大学紛争のあおりでまともな就職をせず大阪の小さな広告制作会社に入る。そこはある大手農業機械メーカーの仕事を中心とするハウスエージェンシーで、カタログなどの印刷物を制作していた。二年経った頃、トラクター用作業機の情報誌制作を私が担当することになり、社長の知り合いだったカメラマン千堂氏と表紙撮影のため北海道旭川市へ出張した。撮影前日に広大な富良野平野をロケハンした後、町外れにある温泉宿に泊る。酒好きの氏はビールを飲んでから温泉に行くが戻ってこない。私が行くと何と奥が混浴になっていて、氏は地元のおばちゃんと楽しく話し込んでいた。翌日氏は、見事なカメラワークで無事撮影を終えた。その後も氏とは何度か泊りがけで全国を回る。農業機械は様々な条件のもとで撮影しなければならず決して簡単ではないが、氏はそれを機敏にこなしていた。日大芸術学部写真学科で、富士山を撮影してある写真コンテストで入賞していた。北斎が好きで、広角レンズの小型ライカを私的に愛用し、ダイナミックな構図での撮影を得意としていた。富士山には特に思い入れがあるらしい。

四国の観音寺市にレタス畑の種まき作業機の撮影に行った時、現地の担当者と打ち合わせを終えた後、四国八十八ヶ所霊場の一つ雲辺寺を案内してもらう。夏でも高木に囲まれて涼しく、いかにも密教の修行の地にふさわしい。温泉宿に戻ってから、氏に土門拳、荒木経惟、篠山紀信、藤原新也といった写真家について訊ねると、場末の風景や人物を撮るカメラワークが近い藤原新也には触発されるところがあると言う。その後も何度か撮影に同行したが、しだいにその写真の出来が平凡になってきたと社長などから不満の声が漏れ始める。そして仕事の依頼が止まってしまう。それから五年ほど経った昭和五十八年、生活が荒れているとの噂が立つ氏と久し振りに東京の居酒屋で会う。仕事は不調で、気乗りせず断っていると言う。私がたしなめると、氏は自分は谷崎潤一郎の『陰影礼賛』のようなモノクロ第一主義で、カラー全盛の時代にはそぐわないのだと話し、後はカラオケに興じてしまう。私は己の無力さを思い知る。それからさらに二年後、突然氏の奥様から電話があり、肝臓を患って入院したとの連絡が入る。私が見舞いに訪れると、氏はアルコール性肝硬変で、生気のない顔でベッドに横たわっていた。傍に置いてあるライカのレンズから悲しみの涙が滲んでいる。病室を出ると奥様が追ってきて、氏からは言わないように言われているが実は一年ほど前に息子を交通事故で亡くし、それでまた酒浸りになったとのこと。私にはなぐさめの言葉もなかった。

それから四年の時が流れた昭和六十三年、私は比較的大きな広告代理店に転職していた。世はバブルに浮かれ、仕事が忙しく派手なCMが次々と流れていた。しかしその景気に陰りが見え始め、翌年天皇逝去と共に昭和が終わり平成が始まった。その春先、京都から一通の手紙が私に届いた。それは千堂氏からで、すべてを投げ捨て妻とも離婚して滋賀県坂本にある天台宗の寺院に救いを求め、伝教大師の『一隅を照らす』の教えのもと常行三昧の日々との内容だった。夏の暑い日、私はそこがいかなる地なのかを確かめるため坂本に向かった。比叡山のふもとの里坊と呼ばれる山麓寺院の集まりらしく静寂が支配していた。そこからケーブルで延暦寺へと向かい、根本中堂で不滅の法灯に祈りを捧げた。途中、眼下に坂本を見渡せる展望台があり、千堂氏が日夜起居しているはずの寺院の屋並を見た。

その坂本を訪ねてから三十五年の歳月が流れ、いつしか平成が終わり令和の時代を迎えている。私も後期高齢者となったが、もし千堂氏が存命なら八十九歳のはずである。私はまた氏の写真帖を取り出し、昭和の頁をめくる。どんな一隅にもさまざまな真実があることを、氏は身を以って教えてくれた。〉

(自作につき感想は省略)

 


資本主義社会における弱者の視点を、芝居を絡めながら巧みに表現

 

◆戸田なお『恋の予感』(12頁)


〈芝居を観に行くため下北沢の駅で待ったが和史は現れず、勤め先の経済研究所に電話すると忙しいと言われた。私は振られた。大学時代の三年間の思い出が蘇ったが、あちらは大手町の金融エリートで、こちらは時代に乗れないポンコツ車だから仕方ないと結子は思った。今のAI研究所に未来の象徴のような新しさを感じて入ったが、ひとり冷遇されている。せっかくだから芝居を観ようと、腹ごしらえのため昔和史と行った餃子の王将に入りかた焼きそばを食べる。二十四歳、自分が冷たい鉄の箱と一体化した気持だ。自立した女性にあこがれたが、不毛だと想った。外に出ると雨だった。すると背の高いスーツ姿の男性が、傘をさしだしてくれた。ラーメン食べながら素敵な女性だと見とれていたらしい。チケットが一枚余っているので芝居ご一緒しませんかと誘うと、嬉しいと返事があった。女子大時代のように面白い話をしてくれる男性に巡り合えた気がした。外務省勤務の村上陽一郎三十歳とのこと。本多劇場の芝居は、新宿御苑の雑居ビルで塾講師と高校生たちが世の生き方を学ぶ「汚名」で、講師は熱い心を伝授するからとにかく生き残れと話す。都会で無念にも死んだ魂が、都庁の地下でカブトムシの幼虫として大きくなっている。人を見下す都庁の役人と結子の職場の人達が重なった。肥大化した幼虫が出てきたとき直下型大地震が起きる。過激だがやさしそうな講師は、妻に頭の上がらない東大卒の革命家と似ていた。結子は中学時代もすぐれている同級生に見下されていたが、今もAI研究所でTOEICの点数が低いとかマスター卒以上じゃないと虐められる。芝居は綺麗な夕陽の舞台に革命軍の旗をかかげ、カーテンコールで終わった。陽一郎は素朴で面白いと言い、わたしも高校の頃の希望を感じてよかったと話す。彼は名刺に電話番号を書いてよこし、もう一枚に私の名前と番号を書かせた。字が綺麗とほめ、今度筆で愛の字を書いてほしいと言われ、駅で別れた。結子の気持は明るくなったが、その後電話はなかった。夏になり帰って玄関をあけたら電話が鳴っていて、六本木のハードロックカフェにいるから来てと言われ、そのままの格好で出かける。彼は洋書を読んでいて、店内はまるでアメリカに小旅行に来たようだった。私がTOEICの点数が低いと話すと、英語くらいなんてことないと言う。彼はアメリカの湖に沈む夕陽みたいなカクテルを二つ注文し、いつか連れて行ってあげたいと言う。結子は少し胸の鼓動が高まった。AI研究所で何をしているかと聞かれ、スケシーュール最適化問題と答えると、僕の毎日も並べ替えてほしいと言う。そして時間だからと三分で席を立ち、駅で反対方向の電車に乗った。恋の予感がした。〉

 

芝居を観に行くはずだった学生時代の恋人に振られるが、入れ替わりに新しい外務省勤務の男性と出会い、一緒に芝居を観に行きます。塾講師と高校生たちの「汚名」という芝居は、都会で虐げられている人たちが革命軍のように立ち上がる話で、今のAI研究所で冷遇されている結子の気持と重なるところがあり救われます。そして電話番号を交わした男性から連絡があり、英語を学んで一緒にアメリカへ行くことを予感しながら終わるという小説です。

失恋と新しい出会いがやや定型的という印象はありますが、現代の理系女子の難しい生き方を捉えてストーリーを作り上げていることと、この資本主義社会でいじめを受けたり虐げられている弱者の視点を芝居と絡めながら巧みに表現している点は見るべきものが多いように思われます。独特のタッチの文章と共に、また次号においてどのような世界を垣間見せてくれるのか楽しみです。


継続は力なりを如実に示す、素晴らしいシリーズエッセイ


《エッセイ》

◆千佳『神戸生活雑感』ー日本と台湾の文化比較

(二十七~二十九)(11頁)

 

二十七)

台湾の夏に欠かせない愛玉氷の思い出と牧野富太郎


〈遠い昔、台湾の夏にはさとうきびジュースや甘酸っぱい梅ジュースなどの甘くて美味しい飲料類があった。亡き父はよく長いさとうきびを買ってきて、皮を剥いて子供たちに渡してくれた。女子高の帰り道には、途中の屋台で冷たい梅ジュースを頂いたものだ。そんな中でこんな思い出がある。七、八歳の頃、おばあちゃんは夏によく台所で何かを包んだ白い布袋を揉んでいた。そしてバケツにその絞った液体と砂糖水を入れてかきまぜるとゼリーが出来上がってくる。それをお椀に入れてレモンや氷を添えると、一服の清涼剤「愛玉氷」が完成する。その材料の植物「愛玉」について先日調べていたら、何と植物学者の牧野富太郎が台湾に来て山奥で発見し命名したものであることを知り驚いた。彼が立ち寄った小さなお店で、この「愛玉氷」を売っていた女の子の名前「愛玉」にちなんだものだったのである。〉


(二十八)

今でももありありと蘇る「すし」「てんぷら」など日本食の懐かしい記憶


〈亡き両親は台湾人だが、どっぷり日本教育を受けた世代だ。父の仕事の関係で、私は元社宅の日本家屋に住んでいた。食事は時々日本食が出て、両親の台湾語の会話に「すし」「味噌汁」「てんぷら」「さしみ」などの日本語が交じった。ある時、引き揚げ前の隣の日本人の奥さんがご馳走としてバナナのてんぷらを持ってきてくれ、珍しくて美味しかった。三十年後、結婚して神戸に住む私はある串焼き料理店でそのバナナのてんぷらと出会い、その時の食感が強烈に蘇った。向田邦子さんのホームドラマで夜更けに亭主がすし詰めのお土産を手に千鳥足で帰宅するシーンがあるが、私が十代まで台湾には日本風料理屋があり父も折詰め寿司などを持ち帰っていた。また母と買い物に行くと、市場には海苔巻き、いなりずし、魚介類の練り物などが陳列されていた。放課後よく校門近くのおじさんの屋台に駆け込んで、あつあつの「甜不辣」を食べた。発音はテンプラで忘れられない味だが、日本に来てみるとこれは厚揚げをだし汁で長く煮込んだ「おでん」だった。〉

 

二十九)

大江健三郎さんの小説とエッセイ集を読んで考え込む私


〈八十八歳で亡くなった大江健三郎さんの追悼特集で「一九九四年ノーベル賞の旅」という番組の再放送を見た。大江さんは受賞講演として「あいまいな日本の私」を英語でスピーチしている。その中でbird(鳥)と長男の名前光を繰り返していたことで、ハッと気付いた。長編『個人的な体験』は、冒頭から主人公鳥(ばーど)の長い物語が始まっている。スピーチでは、頭部障害で生まれた長男光が最初に発した言葉が「ばーど」だと話している。主人公鳥はアフリカへの冒険旅行を夢見るが、妻が頭部ヘルニアの異常を持つ子を出産し、それに苦しむ鳥は自暴自棄になり女性と奔放な性生活を繰り返す。だが最後はハッピーエンドへの急転換となっていて、後にどうしてもそれが必要だったと記している。

次に読んだのが六十六歳の時のエッセー集『言い難き嘆きもて』である。そこで彼は障害児を生き延びさせることは親や社会が「頭の上の方にあるものに、あらかじめしている約束」で、この考えを固く守って報われていると書いている。私は『言い難き嘆きもて』の意味も気になり調べてみると、新共同訳聖書には「私たちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」と記されている。やはり私にとって大江健三郎さんは難解である。〉

 

(二十七)

戦前における日本と台湾の結び付きの深さを感じさせる牧野富太郎の逸話です。女の子の名前をその植物の名にするというのは、なかなか粋ですね。

(二十八)

戦後しばらくは台湾に日本と同じような食文化が色濃く残っていたことがうかがえます。食の記憶は強烈で、何かのきっかけでそれが鮮明に蘇ることが多いようです。「甜不辣」(テンプラ)がおでんだったとは意外でした。

(二十九)

大江健三郎氏にとって障害のある長男の誕生は、その文学においても決定的に重要な意味を持つと言えます。その誕生を受け入れて共に歩んできたことには、信仰の力も大いに関係していたようです。

千佳さんのエッセイは五年目で、早くも三十回近くに達しました。大変素晴らしいことです。まさに継続は力なりです。今後も引き続き味わい深いエッセイを期待しています。

 

(海馬文学会:永田 祐司)