人間とAIが生み出す言葉のはざまで設計された、空虚な同情塔の未来


1990年埼玉県生まれの作者は、2021年『悪い音楽』で文学界新人賞を受賞しデビュー。22年『Schoolgirl』で芥川賞と三島由紀夫賞の候補。この『東京都同情塔』は23年新潮に掲載され、今回芥川賞を受賞しました。受賞者インタビューで「言葉って、実体を持たないものなのに、なぜこんなにも人間や世界を変えてしまうのだろうと、不思議でしょうがない」と語っています。本作はその言葉通りの近未来小説と言えます。

かつて東京オリンピックのための新国立競技場建設で、いったんは決まっていたザハ・ハディド氏の案が工事費の問題などの理由で白紙撤回され、代わって隈研吾氏の新たな案で建設されているにもかかわらず、本作ではその撤回されたザハ・ハディド氏の2本のキールアーチと開閉式の透明膜から成る屋根が付いた競技場が建設されています。しかもそこで2020年に無事オリンピックが実施されたという、事実と異なる意表を突いた設定がなされています。

主人公は建築設計事務所「サラ・アキナ・アーキテクツ」の牧名沙羅37歳で、新宿のザハ・ハディド氏の競技場のすぐ隣に建設予定の「シンパシータワートーキョー」という建物をホテルに宿泊しながら設計しています。そこは同情されるべき人々という意味の犯罪者を収容する超高層の塔です。その名称がとことん気になって脳内から離れないところから小説は始まります。「全体の五パーセントは生成AIを利用して書いた」との発言が話題となったように、小説内にゴシック文字でAIが書いたような文章がしばしば挿入されている点も特徴です。

このように近未来において現実と空想が交錯し、さらにAIが作成した文章が数多く挿入されることによって、近年の芥川賞受賞作とはずいぶん趣の異なるSF的小説となっています。そのため、特に後半あたりから内容を把握するのに少々骨が折れるのが難点と言えます。

以下にごく簡単なあらすじを記します。

 

バベルの塔の再現。勝手な感性で言葉を濫用したシンパシータワートーキョーの何もかもが気になり、この世に存在すべきでないと感じている。レイプされている気分だ。日本人が日本語を捨てたがっている。建築の美しい幻を現実化するには、実際的な技能も必要だ。けれど頭に浮かぶのは言葉だけだ。漢字を覚えるのは早かったが、カタカナはだめだった。トイレの設計で「全性別トイレ」を「ジェンダーレストイレ」と修正されたことがあった。とにかく考えなければならないのは器なのだ。ホモミゼラビリスとは何かをAIに訊ねると、幸福学者のマサキ・セトが犯罪者の人たちを再定義したもので、幸せな人々はホモ・フェリシタトスであり、ソーシャル・インクルージョンやウェルビーイングに欠かせない言葉だと答える。AIに君は文盲かと訊ねるとそうではないと答え、その言葉は使わず差別のないコミュニケーションを心がけなくてはならないと言う。

約束の十八時にホテルのロビーで拓人と会う。穏やかな微笑みと丁寧な言葉づかいの十五歳年下の青年で、新宿御苑ではタワー建設反対のデモがすごいと言う。一ヵ月ほど前に表参道の店でパンプスを買う時に、細心の注意を払って知り合った。ホテルを予約したのは、ザハ・ハディドが遺した流線形の巨大な創造物である国立競技場と新宿御苑を同時に見ることができたからである。ザハ案の総工費の見積りが報道された頃、私はまだニューヨークの設計事務所にいたが、デザインがグロテスクなどの反対があったものの大幅な修正により建設された。それは東京が生み出した世にも美しい生きもので、新しい塔はそれと調和したものでなければならない。言葉を詰め込みすぎて重くなった頭をおさえ、シンパシータワートーキョーが建てられる必然性を考え続けなくてはいけない。


マサキ・セトの「ホモ・ミゼラビリス完全版」に寄せた序文。

「刊行から十年経ち、二〇三〇年完成を目標にタワー建設プロジェクトの準備が進められている。社会的弱者やマイノリティへの理解で大きく遅れている日本の、国際的アピールと飛躍の契機になると確信する。一方で反対の人々も少なからずいる。世の中には良いことをしても褒められず、生を否定されながら大人になる人もいる。彼らは報酬系と呼ばれる脳の神経ネットワークが正常に育っていないため、良い行いをしてもドーパミンが出ない。受刑者で服役中のA子さんは、母子家庭で母親からネグレクトされ、学校でいじめを受け不良仲間とつるみ、やがて年上の男の子供をみごもる。病院で中絶を拒否され、自宅の浴槽で出産する。その子のために万引きを繰り返す。私が初めて面会した時、自分を犯罪者にしたのは誰ですかと問う。私は心からの思いやりを抱いて同情することが、ホモ・フェリシタトスの義務だと思う。人間は皆、幸せになるために生まれてきた。最後にアンビルトの女王として知られるザハ・ハディド氏に謝意を述べたい。スタジアムが着工されたのが二〇一六年冬で、A子さんに会いホモ・ミゼラビリスのアイデアを思いついた頃である。素晴しいアイデアを形にすることを彼女から学んだ。ある日、受刑者が都心の華やかなタワーマンションに似た建物で理想郷のような生活を送っている夢を見た。私は導かれるように外へ出ると新国立競技場の建設の打設音が聞こえた。彼女の存在なくして本書の完成もなかった。二〇二六年 マサキ・セト」

僕は女の人の声で夢から覚めた。彼女はホテルで一週間、タワーのデザインコンペの構想を練っている。自分の心と向き合えないなら仕事すべきではないし、AIからもそう提案されていると言う。数学と物理と建築だけ考え、37歳の成功した女が誕生した。僕は低学歴・低収入だが、健康で顔が綺麗な若者と認識されている。彼女は数学オリンピックで銅メダルだったが、支配欲が強く建築に転向した。オリンピックの語源は日常からの移動の意味らしい。僕がシンパシータワートーキョーを東京都同情塔と言い直すと、彼女は都が入って韻を踏んで良いと言う。ぶつぶつ言いながらカタカナを書き散らし、まるで言葉の牢獄に住んでるみたいだ。僕たちはレストランに入る。僕はシンパシーをやめて東京都同情塔と言い続けたら愛称になると話す。

外へ出て競技場周辺を散策する。彼女は外壁を撫でて歩く。僕のことはママ活ではなく、美しいものを傍に置いておきたい欲望からで、世界の至る所から美しい建築を見つけると言う。彼女はヒールを脱ぎ新宿御苑の千駄ヶ谷門から中へ入る。芝生の中で「マサキ・セトは日本を堕落させた悪魔」とのデモのプラカードを見る。僕は「ホモ・ミゼラビリス」やA子さんのことを訊ねるが、彼女は意見する立場になく、言葉に責任を取らなくてはならないから言わない。そして宙に向かって、国立競技場と東京都同情塔は親子のようなもので基盤とする精神は同一であり、同情、共感、連帯を育む場と話す。

 

彼女の言葉は、AIの構築する文章に似ている。他人の言葉を継ぎ接ぎしてつくる模範的回答。その言葉を通して、僕の頭の中に頑丈な塔が建設されていく。その塔は僕の頭を飛び出し、リアルな質量を持ち眼前にあった。それはどのような異論も認めない圧倒的な破壊だった。塔が意志を持ち、気付いたときには僕の意識はすっぽり塔の中に飲み込まれている。彼女の名前を呼ぶと塔の柱が崩れ落ち、大量の砂が彼女を圧し潰す。その記憶は夢と区別がつかないほど曖昧で、どちらが外部で内部なのか、どちらが過去で未来なのかもわからない。

 

Taktがマックス・クラインの「東京の『刑務所』タワーの内部」という英文をAIに翻訳させたもの。

「東京を訪れるのは三度目だ。一度目はナオミと二度目はキョーコと恋に落ちて記事にしたが、日本人差別を助長する表現とかでレイシストの三流ジャーナリストと見なされている。シンパシータワートーキョーは、現代のジャン・バルジャンたちを支援するために建てられた。世界一幸せな刑務所として日本人の寛容性を賞賛するか、ディストピアとして行き過ぎた平等思想のなれの果てとするかのいずれかだ。私が声をかけた親子はここは刑務所ではなくドージョートーで、刑期を終えても誰も出所したがらないと言う。ベーシックインカムの実験場とも指摘される。内部は洗練された空間で、ミシマユキオの『金閣寺』のように認識と行為の挟み撃ちで世界を変貌させている。受付に、二〇二六年にサラ・マキナが発表した完成予想図に運命的なものを感じてサポーター(旧刑務官)となった美青年タクトがあらわれ、眩しい笑顔で幸せだと答える。最上階のライブラリーから壮観な景色が一望でき、男女が同じスペースで生活している。このホモ・ミゼラビリスの家賃は塔外で働く人が税金で支払うとのこと。こんな世界はクソだと怒る私に、彼は同情テストを受けることを勧め、他者との比較はタブーだと言う。私は日本人の言葉の先に行くことができず、タクトに日本人が日本語を捨てたら何が残るかと問うと、彼は塔が建つずっと前にサラ・マキナが同じことを言っていたと答える(前半)」

 

僕は自称レイシストが書いた言葉をコピーしたが、それよりまず「建築家の女の人の伝記」を書きたい。ここに居住する最大のメリットは、いつでも地上に滞留した言葉をリセットできることだ。塔がオープンした初日に、幸福学者マサキ・セトが祝辞を述べた。彼は言葉は他者と自分を幸福にするためにのみ使用しなければならない。しかし今の言葉は私たちの世界をばらばらにする。ここで幸福な言葉だけを話し、幸せな人生を送りなさい。その幸福学者は知らない男が庭に立っているのを見てわけのわからない言葉で叫んだらしく、レンガを頭上に振り落とされ殺された。ここにはいない女の人の声が聞こえる。

 

文章構築AIに自身の存在を人工知能と認識させながら、その前提に疑いを持たせるにはどうすればいいのか。私はその課題に取り組むが、今は眠る。眠っている私はイソギンチャクだ。それ以外の選択は、牧名沙羅を四十二年生きた者としてあり得ない。私は自分が偶然によって産み落とされた弱い生物であることを知っている。朝の数時間は情報収集をし、正午にロビーに降りた。面と向かって人間と話したのは半年以上前だ。白人がロビーに入ってきた。インタビューを部屋で受ける。私は世間ではマサキ・セトみたいに殺されているか、野垂れ死んでいると思われていると言うと、事務所を閉めて表に出てこなかったのは過激派から身を守るためかと問われる。答える前にドローイングは建築を構想する前のアイデア出しに過ぎないことを説明した後、ここ何年も「社会を混乱させた魔女は死ね」と言われている。今は建築の仕事は一切受けていないと話す。二時間ほどでインタビューが終わる。

私は東京都同情塔を建てたことを後悔している。自分の心を言葉で騙していたことが間違いの根本的原因だ。十四歳の数学少女の頃から同じことを繰り返している。誰のために何のために、言葉を覚えさせているのだろう。私は塔に向かい、門の前に着いて拓人をスマホで呼び出す。爆破予告があったせいか、たくさんの警備員と警察までいる。彼は建築家の女の人の伝記を書いていると言う。夜勤なので翌朝会うことにする。もう私自身が外部と内部を形成する建築そのものであり、塔の未来の幻視が現れる。それはすべての建築と同じく崩壊する未来だ。そのとき瞳の中に立ち続ける私の未来も見え、通りがかった男は私の周囲に型枠を作りコンクリートを流し込み、牧名沙羅の像をつくることを思いつく。それを取り囲む人々との応答は、天地が逆さになるまで考え続けなければならない。

 

 

小説自体はあまりわかりやすいとは言えませんが、まず一つ目に建築をテーマとした意欲的な作品であるのは間違いないところです。バベルの塔とザハ・ハディドの国立競技場というふたつのアンビルト建築に加え、東京都同情塔という近未来の建築を登場させてそれらを関連付けながら小説を進行させます。人間の思い上がりから神の怒りをかって放棄せざるを得なかったバベルの塔が初めに象徴的に語られ、次いですでに過去のものとなっているザハ・ハディドの未来型デザインの競技場を復活させ、それと親子のように調和した建築として同情塔を設計するという小説の流れは意表を突いてインパクトがあります。

建築という社会性や歴史性を持つ構造物に対する作者の事前の理解の深さと、常識にとらわれない非凡な構想力を感じます。

 

あと一つは、日本語の言葉がテーマとなっている点です。主人公の牧名沙羅はカタカナが大の苦手という設定です。それを苛むように、小説ではシンパシータワートーキョーという名称が最初から最後まで繰り返し使われます。さらにその建物の目的を説明するためにホモ・ミゼラビリスやホモ・フェリシタトス、ソーシャル・インクルージョンやウェルビーイングなど、外来語由来のカタカナ語が頻繁に登場します。そして主人公や外人ジャーナリストに、日本人が日本語を捨てたがっていると語らせます。シンパシータワートーキョーは、こうした氾濫するカタカナ語の象徴とも言えます。

主人公はそれを思い付きで東京都同情塔と漢字にしようとしましたが、結果としてそれでうまく行くはずもありません。それはつまり建築とは言葉だけの問題ではなく、それを生み出している心や考え方あるいは思想の問題だからです。日本語で小説を書く作者は、そうした空虚な言葉の羅列をもたらしている上滑りの思想を批判しているのだとも言えます。最後に幸福学者マサキ・セトがあえなく殺されるのもそのためでしょう。

 

作者はこれらの建築や言葉というテーマを、主人公牧名沙羅が同情塔を設計してから完成するまでの過程を通じて表現しています。

そこで重要な役割を果たすのが、生成AIです。主人公はそのAIの力を借りて、それと対話しながら建物の構想や設計を進めようとします。そして時にはAIに対し、文盲だとか人工知能の認識への疑いはないのかと不満やいらだちをぶつけます。しかし期待するような反応はなく、逆にAIから自分の心と向き合えないなら仕事すべきではないなどと提案される始末です。

こうして完成した同情塔に対し、主人公は最後にそれを後悔します。その理由として、AIに頼って自分の心を言葉で騙していたことが間違いの根本的原因だったと悟ります。そして塔の破壊される未来を幻視することになります。

 

小説として多少読みにくい部分はありましたが、今の時代の建築や言語、AIといった難しいテーマを盛り込みながら最後まで仕上げた作者の力量は高く評価されてしかるべきと考えます。

 

(海馬文学会:永田 祐司)