戦争の時代の過酷さを背負った、人を心から愛せない男女の姿を描く

 

作者は1907(明治40)年生まれの、世代的には戦前から戦中派に属していると言えます。学歴は少々込み入っていて27(昭和2)年金沢の第四高等学校理科(現金沢大学理学部)入学、30(昭和5)年卒業し九州帝国大学法文学部英文科(現九州大学文学部)入学、しかし32(昭和7)年中退し、京都帝国大学文学部哲学科に入学。36(昭和11)年卒業しています。その後『サンデー毎日』の懸賞小説で入選し、それが縁で毎日新聞社学芸部に入社しますが、日中戦争で召集を受け出征。翌年病気のため除隊され、学芸部に復帰。そして戦後の50(昭和25)年、年齢的には40代前半の頃この『猟銃』と『闘牛』を「文学界」に発表し、後者で芥川賞を受賞します。その後毎日新聞社を退社し、本格的な作家活動へと入り以後60年代、70年代にかけて多数の小説を残しました。

このように見てくると作家としてのスタートは決して早くはなく、むしろ遅い方でしょう。ただ学歴面でも文学一筋というよりは理学や哲学にも造詣があったようですし、また新聞社入社からは社会全般への関心の強さもうかがわれるなど、その間にさまざまな寄り道をして経験を積んだことが、その後の作風に幅広さをもたらしたようです。

 

この時代の作家には、一般的に戦争体験がその小説に色濃く反映されることが多いと言えます。09年生まれの大岡昇平『俘虜記』や15年生まれの野間宏『真空地帯』など第一次戦後派と呼ばれる作家たちが、戦後文学の一つの流れとしてそうした作品を次々と発表しました。その後の第二次戦後派や第三の新人たちにも、少なからず戦争の影響はにじみ出ています。これに対して井上靖は出征したもののすぐ病気で除隊されて新聞社へ復帰したためか、直接的な戦争体験はほとんどなかったようです。その結果としてなのか、戦後すぐに発表されたこの二つの作品にも表向きは戦争の影を強く感じることはありません。

しかしながらその文学の原点とも位置付けられるこの二作品をよく読むと、主人公の男や女たちが戦後の日本で生きるその姿には、やはり戦争の時代の過酷な状況が投影されているようです。そこから生まれたと思われる人を心から愛せない冷たい「小蛇」を自らの心に抱えながら、作者自身もその後の作家としての道を歩み続けます。そのことによってそれまでの日本の伝統的な私小説やロマン主義、象徴主義などの小説とは一線を画した、独自の新たな文学の境地を切り開いたものと考えられます。

以下各作品のごく簡単なあらすじを記します。

 

『猟銃』

私は知人の依頼である猟人倶楽部の機関誌に「猟銃」と題する詩を掲載した。それは初冬の天城の間道を、革の上衣に猟銃を背負って静かに歩く長身の中年男の姿を詠んだものだ。私の瞼の中には、猟人の背景に落莫とした白い河床があった。二ヵ月ほどして未知の三杉穣介という人物からその姿は自分ではないかと一通の封書が届き、さらに焼き棄てるつもりだったが読んでもらいたいとの三通の女性からの手紙が別便で着く。私は他の人物はすべて仮名にし、それをここに書き写してみようと思う。

 薔子の手紙

穣介おじさま、母が亡くなって早三週間経ちました。薔子はおじさまと母のことを、母が亡くなる前日にその日記を内緒で読んですべて知りました。今まで愛は祝福されるものと信じていたのですが、母は私を十三年間おだましになっていたのです。あの前日みどりおばさまがお見舞にいらしった日、母は何年もしまっていた薊を織り出した結城のお羽織を着て淋しそうにしていました。夕方焼いて頂戴と渡された日記を、私はそっと自分の部屋に隠して読みました。母が何故父と別れねばならなかったのかは、明石の祖母からそれとなく聞いていました。父が京都の大学の小児科で研究していた頃、当時五歳の私は母や祖母たちと明石に住んでいました。そこへ若い狂っていた女の人が父の子供だという赤ちゃんを連れて訪ねてきました。赤ちゃんは間もなく亡くなり、女の人もその後平常になり岡山の商家に嫁いだのですが、母は私を連れて家を飛び出し、お婿さんだった父も家を去りました。潔癖な母は父の過失を許せなかったのでしょう。父は今は兵庫の大きな病院を経営しているとのことです。

日記には罪という文字と「神さまお許しください。みどりさん許してください」と認められ、おじさまと母のことだけが書かれていて、母は十三年間死を背負って生きていました。読んだ瞬間から、みどりおばさまが怖ろしいお方になりました。母と姉妹で一番仲よしだったみどりおばさま。私は一度だけその予感がしたことがありますが、秘密は保たれたまま母は亡くなったのだと信じます。「母さんはいま毒を飲みました」との声を聞いた時、私を襲ったのは怒りの感情でした。すぐかけつけたのはおじさまではなく、みどりおばさまでした。お通夜の晩、すでに仏になっている母とおじさまとみどりおばさまの三人が一つのお部屋に坐っているその大人の世界が、悲しく怖ろしいものに思えました。私はそこから出て、これからは自分で生活を立てて行きたいと思います。別便で母の机から発見したおじさま宛の手紙をお送りいたします。

 みどりの手紙

私はまだ三十三でここ十年ほどの間に何十本かの恋文を書いて参りましたが、その中に貴方宛のものがないのはどうした事でしょう。いつか高木夫人が貴方のことを女にとっては面白くない方と断定してましたが、確かに淋しそうな顔はせず自分の考えが一番正しいと信じきっている、女にとって惚れ甲斐のない殿方。これは私の持って生まれた不運であると同時に、貴方の不運でもあります。さて私たちの名ばかりの夫婦と言う関係も、ここらでピリオドを打ってはいかがでしょう。お仕事も第一線より御勇退遊ばすこの際、いい機会と存じます。私の希望は宝塚の別荘と八瀬の別荘を頂戴し、宝塚は二百万円ほどで人手に譲り、それで余生を生活して参りたい。私には現在愛人はおりません。一昨年頃、新制作派の松代に熱を上げ貴方の眼に憐みに似た悲しい光があった時期もありましたが、あれは陶器を見詰める眼ではございませんか。昨年の初夏、騎手の津村を可愛がった時も冷たい軽蔑で意地悪く光って居りました。話がそれましたが、私は八瀬に引っ込んでお花でも造ることを考えて居ります。突然こんなお別れの申し出をして驚きかもしれませんが、よくまあ十何年間もこうした生活が続けられたと感慨無量でございます。思い切ってお嫌な手紙を書く事をお許し下さいませ。

昭和九年の二月の朝、熱海ホテル二階から真下のきり岸の上を貴方がお歩きなのを見た事があります。その後ろにいた納戸(色)に薊の花が浮き出たお羽織の女人が痛く目にしみました。その予感を確かめるため一睡もしないで夜行に揺られた新妻の私は、現在の薔子さんと同じ二十歳でした。一旦海への道を降りかけた私は、思い返して駅への道をとり、それが今日まで続いて参りました。私はその美しい彩子お姉さんに、あらゆることに自分が到底およばないという気持ちがあったのです。それからも三の宮駅の二等待合室で貴方と彩子さんが急行を待っていた時に入ろうか入るまいか思案していた事、彩子さんの家の前で二階を見上げながら呼び鈴に指をかけようかかけまいかと立ち尽くしていた記憶、まだまだどっさりあります。そうした狂わしい時期もありましたが、私たちの生活はすべてこの秘密の上に打ち建てられ、私の目にあまる振舞も貴方はお咎めにならず、冷たく荒れて行ったのです。しかしやがて私たちの取引にも結末がある、そんな期待が微かにひそんでいました。その後何年か過ぎ、百日紅の花が毒々しく赤い今年の夏、私は彩子さんの亡くなる前日にお見舞いに伺いました。そこで思いがけずあの熱海の朝と同じ薊のお羽織を肩にかけているのを見て、私は秘密を取り出しました。「三杉と熱海にいらしった時、これお召しになっていたでしょう」あの人の顔から血の気が失せ、私はこの人は死ぬだろうと思いました。審判は終ったのです。貴方が私とお別れせずにはいられないことがお解りの事と存じます。この手紙は離れの書斎で認めました。ゴーギャンは私が頂戴して代りにブラマンクの雪景を掛けて置きました。

 彩子の手紙(遺書)

貴方がこの手紙をお読みなさる時、私はもうこの世にはいません。生前真実の私をお見せしたことはなかったようですが、これを書いている私が本当の私です。山崎の天王山の紅葉が美しかったあの初めての日、愛と言うものは執着だ、貴女に執着して何処が悪いと言われ、貴方から逃れようと張り詰めていた私の心が崩折れました。夫門田の過失をどうしても許す事の出来なかった私が、自らの不貞を許すのは簡単な事でした。熱海ホテルの夜、遠くの小さな漁船の火事を見ながら私たちは悪人になろうと決めたのでした。昼間、日記をめくると死と罪と愛と言う文字がやたら目につき、私はみどりさんに知れた時は死んでお詫びしようとの気持でした。しかしこうした私以外に、もう一人の私がいました。貴方が京都の大学で竹田博士と面会を終えて出てきた時、蛇の標本を見ていた私に小さいセピア色の蛇はみどりさん、全身に白い斑点の頭が尖っている小さな蛇が私で、みんな人間は一匹ずつ蛇を持っていると言いましたが、それが姿を現しました。

今日の午後みどりさんがお見舞いに来た時、私はあの結城の羽織を着ていて、これは三杉と熱海にいらしった時にお召しになっていたと聞いて、この人は何もかも知っていたのかと思いました。長い間の暗い重いものが取り去られましたが、私は静かな満ち足りた陶酔感に酔っていました。私があの人を呼び止めた時は、もう向うに行くところでした。それからぐっすり眠りました。気が付くと明石の伯父が立ち寄って、門田が結婚したと言いました。私は急に落ち込んで行くような眩暈を感じ、もう駄目と思いました。門田の結婚がこれほどの打撃になるとは想像もしませんでした。私は昨日までのぎらぎらした生彩を全く喪った日記を、庭で落葉を焚いている薔子に手渡し、死を決心しました。門田の独身生活は、私にとって生きる支えだったのです。今日初めてもう一人の私に気付いたと認めましたがそれは嘘で、私はとうからそれを知っていたはずです。阪神間が火の海のようになったあの八月の夜、薔子と二人で貴方が設計した防空壕にいて貴方が駆け付けていたにもかかわらず、私は外へ飛び出し門田の病院の防空壕前に立ちたい欲求に身を震わせていたのです。私が白い小蛇を持っていると言われたあの時、私は見すかされた気がして身のちぢむ思いで貴方を見たら、うつろなお顔をしてらっしゃいました。私はあの熱海の夜も、救いのない孤独の中に落ち込んでいました。愛情とも憎悪とも区別のつかぬ門田への執着を断ち切るため、私はただ自分の苦しみを窒息させることの出来るものを求めていたのです。愛する苦しさに堪えかね、愛される倖せを求めた女の、当然受けねばならぬ酬いが、いま私の上に降りかかっているようです。短い遺書の中の命でも、これだけは偽りのない本当の私の生命でございます。

 

私は三通の手紙を読み終わった後、三杉穣介の封書を読み返してみた。そして狩猟に興味を持つに至ったのは現在の天涯孤独の身とは異なり、公私両生活において破綻なき時期からであるとの、どこか意味ありげな字面の中に三杉という人間の持つ暗然たる蛇を感じた。彼は三通の手紙の前に、それらの蛇の正体を知っていたのではないか。私は彼の「白い河床」であるかのように、樹立ちの茂る中庭の闇を覗き込んでいた。



『闘牛』

一月二十日から三日間、阪神球場で闘牛大会との社告が大阪新夕刊紙に発表された。編輯局長津上は、四国から出向いた興行師田代と道を歩きながら大会後に牛を買い取ることを相談されたがB新聞の子会社として創立されたばかりの財政状態では無理だった。それを同郷の岡部という阪神工業の社長が買うかもしれないと五十過ぎの田代は言う。彼が津上の住居を初めて訪ねてきたのは、一ヵ月程前だ。さき子と別れる別れないの一悶着があった翌朝である。彼は伊予の牛相撲を大阪の檜舞台で行う夢を語り、これほど儲けの確実な事業はなく、牛の勝負に観衆が賭けるのだと話す。それを聞き津上はいけると思った。さき子はあなたが夢中になりそうな話だと言う。

津上はB新聞社の社会部デスクを三年勤め上げた後、新夕刊紙の編輯局長に三十七で就任した。社長は映画界上りの尾本だった。津上は新しいインテリサラリーマン向け紙面を目指した。そんな津上の性格をよく見抜いているのは、戦時中から三年越しに関係を続けているさき子である。津上には鳥取に疎開させたままの妻と二人の子供があり、さき子には彼の大学時代の友で戦死して遺骨の帰らない夫があった。さき子は津上の愛情にどこか燃えきらなさと冷たい魚族の眼を感じた。それは不逞な悲しいやくざな光を帯びていて、彼女の愛はその時々憎悪に変るのであった。

その翌日新聞社で幹部会が開かれ、三日間の球場での開催と、収益と支出との差額を新聞社と田代の梅若興行部で折半することに決まった。社内で準備委員会が造られ、津上は四国のW市を訪れた。すでに田代が話をつけていて、闘牛協会や地元の人たちから歓迎され牛舎や牛相撲が行われるS神社を見て回った。大阪へ帰ってからは球場関係者や県の担当部局に出かけ実施の交渉を行う。津上は田代に案内されてあるビルの小部屋で岡部と会った。ウイスキーを飲みながらの岡部の話によると、彼のいろいろな会社は終戦後に南方から復員して伊予を飛び出した後、神戸で農機具の販売や借金などをしてわずか一年で作り上げたもので、今は千万や二千万円は持っていて、闘牛大会の牛に関することは全部面倒を見させてくれと言う。しかし津上は最初の事業なので新聞社単独でやりたいと断った。帰り際に田代から、実は牛の輸送に使う車輌が足りず鉄道局と交渉しているが解決するには岡部の力が必要で、すでに彼と話をしていると言われる。

さき子は津上と大晦日の晩だけ京都の旅館で過ごしたが、大きな不安を感じた。正月はアパートに閉じこもっていた。新夕刊紙には闘牛の記事が目立ってきた。日頃職場に来てはいけないと言われていたが、阪神球場を訪ねた。彼はスタンドの通路の先にいて何の用かと言う。二人は坐って冬の曇天と雑然とした周辺の眺望を見渡す。京都の茶会へ二人で行きたいと彼女が話すが拒まれ、気まずい空気が流れる。彼は闘牛の竹矢来のリングや花火、さらにはサウンドトラックのことなどをいらいらした顔で話す。さき子は大阪行きの電車に乗る時、あの人は失敗するとの予感に襲われる。

大会が近付くと、紙面が闘牛の記事で塗りつぶされ始め、広告宣伝も派手に展開された。大型ポスターや吊広告、また車でサウンドトラックの歌が流される。それらの費用が予定をはるかに超過していた。会計部長からも釘をさされたが、牛の受け入れ準備が整った。予定通りに行けば、三日間で十万の入場者でリングサイド、内野、外野、内野後方の各券の総売上三百三十万円、百万円の支出を差し引いて二百三十万円の純利益、それを田代と山分けしてざっと百万円の計算だった。翌朝、省線の三宮駅に行くと牛が到着していた。田代によれば出発して五日目だと言う。これから行列する手筈だ。構内の端の方で、牛の飼料だと言って積み込んだ鰹節や黒砂糖などを運んでいるらしく、田代によればこれは岡部の荷物である。そして愛媛の方で牛の食いぶちを特配してもらうつもりができなかったので、それを彼に何とか頼むしかないと言う。津上は自分が岡部に話すと言う。牛たちが出発したが、そこへまた田代が来て勢子たちの日当として明日までに十万円ほしいと言う。


津上が大阪の社に引き返すと、最近急躍進の東洋製薬の三十ほどの青年社長三浦がお願いがあって訪ねてきていた。入場券全部を全額前金の二割引きで譲ってもらえないかと言う。宣伝に使いたいとのことで、それに自社製品の七円相当の“清涼”の小袋を添付して売りたいと言う。三浦の方は売れればとんとんで、売れなければ損になる。新聞社は事業が完全に成功した場合は二割損だが、逆に失敗のリスクはなく確実に収益は上がる。お互いに一つの賭けである。津上は全部は無理だがリングサイド券ならと提案するが、それは客層が違うと断られる。三浦はここ数日は雨になる予報だし、明日朝もう一度訪ねるので考えてほしいと言って帰る。津上はそれから牛の食料と十万円の金の用意のため、まず尼崎の岡部の会社に行く。岡部はウイスキーを進めたが、津上が米と麦と酒の件を切り出すとすぐに用立てすると言う。米と麦は、農機具の見返りに農村から送らせる叺の底に少しずつ入れるとのこと。

翌日の大会前日、少し空模様が崩れてきていた。津上は前日の夜、金の件で事業家二人に電話をかけたがどうにもならず、今朝は三浦の顔が瞼に浮んでいた。尾本に三浦の話をすると昨日のうちに決めるべきだったと言う。三浦が来て雨八分、晴二分だが僕は晴二分に賭けるがどうかと切り出すと、尾本がその異様な強気に刺激されて話を打ち切り、津上に十万円はぼくの方で何とかすると言う。彼はそれから外出し、用立てて帰って来た。津上はそれを持って田代のいる球場の事務所に行き、手渡す。米と麦と酒は、前日夜あれから岡部が手配したのか今朝四時に運び込まれていた。その夜、開催前夜の祝宴が西宮の料亭で催され、その席で優勝候補の三谷牛と川崎牛の飼い主が昂奮して啖呵を切り、津上は闘牛大会の本質が生き物の闘いだという、すっかり忘れていたことに気付いた。

当日宿直室で眼を覚まし窓を開けると、氷雨が腕を打った。気象台に問合せると晴れたり曇ったりだと言う。尾本からいらいらした電話があった。球場事務所に行くと田代がどじを踏んだと不運な顔をしている。一時から始めても集まるのは三千だろう。二時から開催のビラを撒き、少しだけ人が集まってきた。だが三日のうち一日の黒星でも大勢には決定的である。津上はスタンドの最上階から冷たい風景を眺め寂寥感にひたっていた。再び雨が落ち始め、大会中止の放送を流す。気付くとさき子が傘をさして立っていた。津上は事務所に戻りやるべき仕事を片付け、明日も午前中雨なら中止とみなに言い渡した後、二人で自動車に乗った。さき子は手負うた愛人の顔をじっと見詰める。母親の持つ勝利感に似た、一種残忍な快感を伴った不思議な欲情がさき子を別人のようにしていた。

雨は二日目の夕方から上り、三日目は晴れた。九時には一万六千枚程の入場券が売れていた。尾本は損害をいかに縮められるかに熱心だったが、田代は絶望的な気持でウイスキーの小瓶を口に運び、誰も闘牛など見ていない。しかし津上は闘牛を夏までに東京へ持って行く企画を孤独な心の底で思いつめていた。三時までに三万一千枚が売れたが、田代はざっと百万の損害で半分の五十万が大穴と言い、頭を抱え込む。そこへ三浦が現れいささかの同情も憐みも見せず、打ち上げの花火代を持つので“清涼”の引換券をいれさせてほしいと言い了承された。津上は彼に何か敵のようなものを感じたが、それは津上がともすれば破局へ突き進むのに対し、それと対蹠的な彼の幸運の星廻りを憎んでいるのであった。

牛繋場では岡部が田代をつれて悠々と牛の品定めをしている。呼びものの三谷牛と川崎牛の試合は一時間以上も決着がついていない。津上の発案で引き分けか最後まで闘わせるか観衆の拍手で決めることになり、三谷はなの希望通り続行が決まった。さき子は闘牛には興味がなかったが、内野席にずっと坐っていた。そこから見える津上は絶望的ではなく若い幹部らしい平常のエゴイスチックな眩しさがあり、もう自分のもとへは戻ってこない気がした。津上が来て隣に坐り、観衆の七割がこの牛の競技に自分を賭けていると言う。さき子はみんなが賭けているのにあなただけ賭けていないと言うと、君はどう? と聞かれた瞬間はっとして、反射的に私も賭けていると答えた。赤い牛が勝ったら別れようと。二匹の牛は身動きせずスタンドは異様に静かだった。その時、均衡が破れたがさき子は即座に見極められず、烈しい眩暈を感じた。

 

この二つの小説はまるで異なる題材を取り扱っていますが、いずれも男女の関係を基軸として語られているというよく似た部分を持っています。そしてどちらも主人公の男女は不倫の関係にありますが、それが特に作品の重要なテーマになっているというわけではありません。

とりわけ『猟銃』は、ほとんどが不倫関係を中心に話が進行して行きます。その主人公は男性の三杉よりも、むしろその愛人彩子と言って良いように思われます。そして彼女の手紙(遺書)で最後に明かされるのは、自死に至った理由が三杉の妻である妹みどりを十三年間騙してきたことへのすまなさやお詫びからではなく、かつて別れた夫が再婚し自分が完全に見放されたことへの失望であるという意外な事実が語られます。まさに薊の花言葉に象徴されているような欺きだったということになります。

一方の『闘牛』は、新夕刊紙の編輯局長津上が社の闘牛大会を成功させるため田代や岡部、尾本、三浦など様々な男たちと奔走する姿を描きながら、そこに愛人さき子との微妙な関係を織り込んでいます。津上は妻子を鳥取に置いたままさき子と不倫関係にありますが、それは二人の意識にあまり影響を及ぼしていないようです。そして別れる別れないの悶着を繰り返したあげく、さき子は最後に牛の闘いに未来を賭けますがその結末は不明です。つまるところ二人の関係が彼女の望むような形を得ることはなさそうです。

このように見てくると作者にとって不倫それ自体は問題ではなく、あくまでも対となる主人公たちの男女関係そのものに焦点を当てたかったのだと思われます。

 

しかしながらその男女の恋愛関係には、お互いに真実の愛を貫き通すといった純朴な姿勢は見当たりません。三杉と彩子、三杉とみどり、また津上とさき子のいずれにしても男女の思いは相手の核心に届くことなくどこかすれ違っていて、きちんと噛み合うことがありません。お互いに心から愛し合うことができないのだとも言えます。

それはすなわち三杉の言う、それぞれの人間が抱えている「小蛇」すなわち嘘や欲や打算にまみれたエゴイズムのせいなのかもしれません。そしてそれが結果として、作者に猟人である三杉の背の落莫とした「白い河床」を感じさせているのでしょう。

いずれにしても作者の原点とも言えるこの二つの小説に共通するのは、人生や愛に対して男と女が求めるものは初めから大きく異なっていて、時に熱狂することがあったとしても長く続くことはなく、最後はそれぞれが一人一人孤立して生きていくしかないという荒涼とした寂しい風景です。そしてそれを作者にもたらしたのは、戦争の時代の過酷さだったような気がします。あるいは作者の個人的な資質によるものなのか、または日本の文化が持つ侘びや寂びといった仏教的な無常(無情)の世界観なのかもしれません。だとしたらそれは他の国には見られない日本固有のものと言えるでしょう。


(海馬文学会:永田 祐司)