片岡 一竹

『ゼロから始めるジャック・ラカン』疾風怒濤精神分析入門

(ちくま文庫)

 

新年早々、震災と航空機事故が続く多難な一年の幕開けとなりました。こんな時ではありますが、ラカンのちょっと難しそうな本をご紹介いたします。

副題に「疾風怒濤」と何やら劇画のようなタイトルが付いています。裏表紙には「ラカンの核心を読み解く超入門の書」とあります。もともと2017年に刊行された『疾風怒濤精神分析入門 ジャック・ラカン的生き方のススメ』という本に、大幅な加筆修正を施して改訂された文庫です。

なぜこの本に興味を持ったかと言いますと、最近よく当海馬文学会の同人誌を取り上げて頂くある季刊文芸誌の「同人誌評」にラカンやフロイトの引用がしばしばあり、それがかなり難解な内容を含んでいるためその理解に少しでも役立てたいとの思いがあったためです。

一般的に小説の批評においてラカンやフロイトが重要になるのは、特に家庭における親子関係がテーマになった時です。それはすなわち一人の人間が生まれて幼児からしだいに成長する過程において、母親や父親との関係が基軸になるからと言えます。その関係のあり方は単純で画一的なものではなく、さまざまなバリエーションや筋道を辿りながら進行します。その家族固有の事情だけでなく、それを取り巻く時代や社会背景、さらには宗教的なことなども影響するきわめて複雑なものです。

 

こうした親子関係の問題は、これまでにも数多くの古今東西の小説で取り上げられてきました。男女の関係に次いで多いのではないかとも思います。この親子関係における複合的な人間心理の襞を追及しようという試みは、小説だけでなく精神分析学や哲学といった学問的分野でもしばしば研究され、特にフロイトとラカンの二人はこの分野できわめて先駆的な役割を果たしてきたと言えます。しかしながらそれらは小説とはまた違った深層心理(無意識)の視点からのアプローチとなっていて、その内容はかなり難解です。

私のこの本に対する関心も特にその親子関係を解き明かそうとした部分にあるのですが、この文庫はそれらの問題だけにとどまらずもっと幅広くラカンの精神分析理論全般を解説した入門書となっています。そうしたことに関心のある方にもぜひご一読をお薦めいたします。

著者は1994年生まれ、早稲田大学大学院博士課程在籍の気鋭の精神分析学者です。

ちなみに全体の目次は下記の通りです。

 

はじめに こんな疾風怒濤の時代だから

文庫版まえがき

第Ⅰ部 精神分析とはどのような営みか

 第一章 それでも、精神分析が必要な人のために

     ……精神分析はなんのためにあるのか

 第二章 自分を救えるのは自分しかいない

     ……精神分析が目指すもの

第Ⅱ部 精神分析とはどのような理論か

 第三章 国境を越えると世界が変わってしまうのはなぜか

     ……想像界・象徴界・現実界について

 第四章 私とはひとりの他者である

     ……鏡像段階からシニフィアンへ

 第五章 〈父〉はなぜ死んでいなければならないのか

     ……エディプス・コンプレックスと欲望

 第六章 不可能なものに賭ければよいと思ったら大間違いである

     ……現実界について

 終章 すべてはうまくいかなくても

    ……分析の終結について

文献案内 あとがき 文庫版あとがき

解説 向井雅明

 

ラカンの精神分析に関する「超入門書」と言いながら、第Ⅰ部、第Ⅱ部のいずれも理解するにはなかなか骨が折れます。それらの全体を過不足なく紹介する力は私にはありませんので、前述したように特に関心のある親子関係の問題を解明しようとする第五章の「〈父〉はなぜ死んでいなければならないのか……エディプス・コンプレックスと欲望」についてのみ、印象に残った箇所を重点的に抜き書きしてみたいと思います。



そもそも「〈父〉はなぜ死んでいなければならないのか」というタイトル自体がとても象徴的です。その意味は読み進めていかないとわかりませんが、ここではまずいわゆるエディプス・コンプレックスすなわち「自分の両親(特に父親)に対して抱く複雑な観念・感情の複合体」が精神分析にとってきわめて重要な中核であり、それは私たちにとって「親は最初に出会う《他者》の代表者である」からとされます。そこで「子供が出会う最初の《他者》は母であり、それは子供を保護・観察する存在全般を指します」。その子供の「食べたり寝たり排泄したりする」「生物学的な必要性を欲求」と言い、それは「要請として言語化しない限り満たされない」もので、その「シーンの中で、〈母〉の応答によって幼児の中に言語が刻みつけられ」るのだと言います。

 

しかし全ての欲求が満たされるとは限らず、それ以上を求めて「愛の要請」が始まりますが、そのギャップの中に「《他者》の世界で生きるということそのものから生まれる不満足に由来」する「欲望」が発生します。その「欲望の対象は〈欠如しているもの〉」で決して充たされないため「つねに〈他のもの〉を目指します」。この究極的な欠けたものは「存在欠如」とも呼ばれます。

そこから「不満」が生まれますが、それは幼児が「〈母〉を万能の存在だと思っている」からで、母の不在は自分を愛していないためだと不安を感じます。

ここで第二の親として、もう一人の《他者》である〈父〉が登場します。この〈父〉は「子供を育てる存在ではなく、超越的な立場から〈法〉を通じて子供を導く存在」としての象徴的〈父〉であり、《父の名》と呼ばれます。普遍的な〈法〉は、この〈父〉の存在があって初めて機能するものですが、それはあくまでも象徴的〈父〉であり、人間であるとは言えないため「死んでいなければならない」のです。このことで「〈母〉という一人の《他者》が世界のすべてではないこと」を子供に示すことができるのです。

このようにして子供がうまく〈法〉の中で生きていければ良いのですが、実際にはさまざまなトラブルが起こります。それがエディプス・コンプレックスです。その始まりは「前エディプス期」でまだ〈父〉は登場していません。この頃は〈母〉の万能性に陰りが見え始め、子供は〈母〉にも「欠如があり万能ではなく」その《他者》としての「欲望」に出会います。そこで子供は「自分自身を欲望の対象として〈母〉に与え」その「欠如を埋めようと」します。

 

精神分析理論には、この「欲望の対象」を意味する「ファルス」という言葉があります。「欲望」は「自らの原点である欠如を埋め合わせることを目指します」が、この「ファルスというシニフィアンが表すのは純粋な欠如」で形がなく「欲望の究極的な対象を意味」します。

「前エディプス期」では、子供はまだ「万能の存在としての〈母〉というイメージを手放しません」が、そこへ〈父〉が現れ「〈母〉のファルスを剥奪」しようとします。そのことで「本格的にエディプス・コンプレックスが形成され始め」それが実質的な「エディプス期」の始まりとなります。子供は邪魔者の〈父〉を排除しようとしますが、〈母〉には「初めから欠如があり、万能の存在ではなかった」ことを認めていかなければなりません。

〈母〉の根本的な欠如を受け入れるのが「エディプス第三期」です。ここで子供が受け入れる「〈母〉の本質的な欠如を去勢と呼びます」。「去勢とは初めからないことを意味」しますが、ラカンはフロイトと違って性別に関係なく子供が〈母〉の去勢を受け入れることでエディプス・コンプレックスが克服されると考えます。

ここでの〈父〉は《父の名》と呼ばれる象徴的父で、〈法〉も与えます。

 

このエディプス・コンプレックスからの脱出には「二つの道」があり、その「どちらのルートを選んだかによって、その主体が〈男〉であるか〈女〉であるかが規定され」ます。精神分析にとって性差は生物学的特徴で決まるのではなく、それは「あくまでもシニフィアン的なものであり、人間固有の象徴的世界の中で」主体的に選択されるものです。

〈男〉のルートは〈父〉のようにファルスを持つことを欲望し、それまで〈母〉のファルスに存在意義を見い出していたものから「〈父〉に同一化する」ことを選び、「自分の欠如を埋めてくれる対象を他所に探す」ようになります。しかし探し求めるのは「形を与えられない欠如」であり、その対象から欲望の満足が得られることはありません。

〈女〉のルートは〈母〉のファルスであることをやめ、〈父〉のファルスになろうとして「その欲望そのものに向かいます」。そのための手段が「仮装」(仮面)で、主体は「仮装というヴェールの裏に何かがあることを仄めかすという仕方で、間接的に自分がファルスである」ことを示します。ヴェールは「相手の気を惹くためのおとり」で、その裏にある〈謎〉を示唆して相手の欲望の対象となるように仕向けます。

この〈男〉〈女〉どちらのルートにも共通するのが、「《他者》の欲望という〈謎〉を自分の欲望として利用」し身につけていく過程なのです。

 

あまり正確とは言えませんが、以上が第五章の「〈父〉はなぜ死んでいなければならないのか……エディプス・コンプレックスと欲望」についての概略です。

何となくわかったような気もしますが、やはり肝腎のところは曖昧さが残ったままです。特に難しいのが「欲望」とその究極の対象を示す「ファルス」という言葉で、しかもその「フィニシアンは純粋な欠如を表す」ということの意味です。それに関連して「欲望」や「ファルス」という言葉が、どこまで性的あるいは性器的な意味を含むのかについても今一つ判然としません。これらについては、そもそもフロイトとラカンにおいてもかなりの見解の差があるようです。

 

結局はまだ言語を十分習得しておらずしかも性的に未発達な幼児から小学生頃の体験に関することを、大人の立場からの精神分析と思弁的な考察によって解明していくことの難しさではないでしょうか。そのあたりを合理的かつ客観的に分析する手法が確立されないと(それは不可能なのかもしれませんが)、子供が成長していく過程で辿る男女別のエディプス・コンプレックス克服ということについての理解も困難のように思われます。

それと理解を妨げているもう一つの理由が、これはどんな学問にも共通しますが、やはり翻訳による用語の定義やニュアンスの微妙な違い、さらにはその前提としての欧米と異なる日本文化の問題があるかもしれません。

それはさておき、精神分析の世界では性差は生物学的特徴で決まるのではなく、エディプス・コンプレックス克服の過程での主体的な選択によるとの指摘はある意味でとても重要なことのように思われます。その見解に触れただけでもこの本を読む価値はあった気がします。

 

(海馬文学会:永田 祐司)