高橋源一郎

『大人にはわからない日本文学史』

(岩波現代文庫)


本書は2009年に岩波書店から刊行され、13年に文庫化されたものです。私が最初に読んだのは56年前で、その時は高橋源一郎氏独自のユニークな視点から日本の文学史を大変わかりやすく解説している本だなと思いました。それから少し年数が経ち芥川賞などもまた次々と新しい受賞作が生まれる中で、今回あらためて読み直し、これはやはりブログで取り上げるべき価値ある一冊だと感じました。


高橋氏は1951年生まれで、81年『さようなら、ギャングたち』で群像新人長編小説優秀賞、88年『優雅で感傷的な日本野球』で三島由紀夫賞、2002年『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞、12年『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞するなどで知られる作家、文芸評論家です。明治学院大学名誉教授でもあります。

本書は「あとがき」によれば「一年にわたって、横浜の明治学院大学、神保町の岩波書店と場所を移動して行なわれた講義」(七日間)をもとに書かれたもので、大変読みやすくなっています。


講義のきっかけは「はじめに」でふれているように「もう半世紀以上も、たくさんの本を、とりわけ小説を読んで」きたが「突然、あることに気づいた」。それは「それらの小説たちが、ぼくが聞いてきた評判とは、えらく違った」。その「評判」とは「『文学史』という『文学』に関する『歴史』の中での評判」である。そこで小説をその「評判」から取り戻そうと思った。さらに「あとがき」で「この国の『文学』は、かつてない変化のただ中にあること、その未来を覗いてみること、それらを念頭におきながら、この本は作られた」とあります。


その目次は次の通りです。以下、一日目から七日目の講義について、私なりに特に印象に残った部分だけを書き記してみたいと思います。


はじめに……『大人にはわからない日本文学史』のできるまで

一日目 「文学史」を樋口一葉で折りたたむとすれば

二日目 「文学史」が綿矢りさを生み出した

三日目 小説の文章が最後にたどり着いた場所

四日目 自然主義をひっぱたきたい

五日目 「日本文学戦争」戦後秘話

六日目 小説のOSを更新する日

七日目 文学史の「晩年」から次の千年の文学へ

あとがき

解説(穂村 弘)


・一日目 「文学史」を樋口一葉で折りたたむとすれば

樋口一葉の『たけくらべ』『にごりえ』が書かれた明治二十八年を軸として、その前後十年にある意味での日本文学の起源と最初の完成がある。すなわち明治十年の二葉亭四迷『浮雲』などから、国木田独歩『武蔵野』を経て明治三十九年の島崎藤村『破戒』や夏目漱石『草枕』などに至るまでの中には、日本の小説を特徴づけるものがすべて存在しているが、その中に「一葉の居場所がない」「一葉のところだけねじまげられている」印象を受ける。

それは興隆する資本主義と男性中心主義社会において「少数者であるような、若く、金を持たない、教育を受けていない女性のリアリズム」と考える。それは今の自然主義リアリズムの感覚では「読みにくい」が、「現代の小説に登場してくる人々の感想や感覚と、『にごりえ』のそれは、ほとんど変わらないような気がする」。


・二日目 「文学史」が綿矢りさを生み出した

樋口一葉の小説にあるのは「感情の繰り返し」で「どれも、感情を直接的に明示する形容詞」であるがそれは「古びることはない」。それから百年後の綿矢りさの『インストール』は「読者に『五感』をフルに用いるよう要請している」。「マンションの隅のゴミ捨て場にやってきて、『私』は自分を観察している」。

この小説を読むと、一葉や国木田独歩『武蔵野』を思い浮かべた。『インストール』には「『語られるべき痛切な事実』は存在しない」し、「ことばの導くまま、なにもない『自分』に最もふさわしい場所として」ゴミ捨て場に身を横たえた。

「思想や観念は古びるけれど、肉体に結びついたものは古びないのかもしれない」。


・三日目 小説の文章が最後にたどり着いた場所

綿矢りさの『You can keep it.』という「大学生数人の日常生活が書かれた」短編小説の文章は「比喩的表現が、ある限界のところまで達している」。それは「比喩がすでに比喩としての機能を失っている」からで「別の言い方をするなら、視覚的に想像することが不可能で、ことばによってのみ存在し得る比喩になってしまった」。

その後の『夢を与える』という長編小説は「技術的にも、言語的にも、後退した風俗小説」であるが、その登場人物の「内面」は「彼らの、社会的な風潮や慣習や、感情、紋切り型のことばや行動を通してのみ」現われるもので、それは「自然主義リアリズム」とは別の意味での「リアリズム」と言える。


・四日目 自然主義をひっぱたきたい

赤木智弘(フリーライター)の月刊誌の論文に「希望は、戦争」との言葉がある。日本の資本主義はバブル後に派遣労働者に関する法律の変更によって、若者の間に大きな格差を生み出した。

この二〇〇七年と、石川啄木の「時代閉塞の現状」という評論が書かれた明治四十年代の状況とはよく似ている。啄木は「『敵』を見つけて戦え」と宣戦布告したがその「敵とは『自然主義』」である。そして「必要」と「批評」という言葉で世界をひっぱたこうとした。



・五日目 「日本文学戦争」戦後秘話

本書の解説者でもある穂村弘氏が『短歌の友人』で短歌の歴史を総括しているが、それは「小説で起こった変化と、きわめて密接な関係がある」。

明治期の近代短歌の「『私』の獲得」、近代中期の「言葉のモノ化」(自在化、玩具化)、1980年代後半以降の「口語化」と、「旧の上に次々に新が乗ってゆく」「上塗り的な変化」であり、最後は「みすぼらしい等身大の『私』のリアリズムへ戻ってきた」。それはずっと「戦い」の武器だった「言葉の敗戦処理」とも言える。

石川啄木の百年前の『ローマ字日記』の個人的な告白は、「近代文学が生んだ『自然主義』『リアリズム』『私』の三位一体」の内側にあり、現代にも通用する。そして最近の新しい小説は「自然主義リアリズムにはなかった、なにか不思議なものが感じられ」「目の前の現実を、呆然として見るしかない」「棒立ちの私」という状況である。

若い小説家たちは「この百年で初めて、口語に向かい合って」いると言える。


・六日目 小説のOSを更新する日

日本の近代小説は「1990年代の半ばあたりで、『OS』を交換した」。それは「『私』というOS」で、「八十年代の作家たちに」は「『私』である作者の影が拭いきれず表出」されている。しかしその後の作家たちには「『私』の匂いは極度に希薄」であり、「交換可能でどんなキャラクターにも変身出来る」。

近代とは「『自他の区別』を重視する世界」だが、「この『自他の区別』の消滅への願望」が作者のいないケータイ小説など新しい多くの小説にみられる。「新しいOSのとりこみは、近代百年の文学を支配してきたOSの終焉を告げているのかもしれない」。


・七日目 文学史の「晩年」から次の千年の文学へ

私たちは「抽象的に」ではなく「肉体というものに寄り添って、ものを考え」、「あるものが変化する時」何かを言える気がする。「社会全体が『始まり』の意識の中にある時」はそれにふさわしい物語が求められ、緩やかに下降する時は「『下降』の物語を、無意識の中に」求め始める。

志賀直哉は『始まり』、太宰治は『成長』、耕治人は『晩年』をそれぞれ同じ共同体に属して書いたが、新しい小説には別の共同体に属しているような「現在しか存在しない」ものがある。それは「世界の向う側はわからない」あるいは「他者はわからない」ということで、「次の千年」へと向かうものかもしれない。

 

一部印象に残った部分のみ書き出してきましたが、本書の内容はとてもこのような記述の中に収まるものではありません。明治から現代に至るまでの日本文学の様々な作品を数多く引用しながら、それを独自の視点からの考察によって新たな文学史として再構成しています。

それによって私たちはひとまず、明治の自然主義リアリズムから始まった近代文学が大正、昭和を経て今日までどのように変化してきたかの大きな流れを、おおよそ把握することができます。さらに今後どのような方向に進んで行くのかについても、おぼろげではありますが理解できます。

ただしそれ以上の正確かつ詳細な内容をお知りになりたい方には、ぜひ本書を直接お読み頂くことをお薦めいたします。


本書では特に、七日間にわたる高橋氏の講義の内容と進め方のユニークさが際立っています。明治の文学を樋口一葉で折りたたむという発想、綿矢りさの小説における究極の比喩という分析、明治から今日に至るまでの短歌と小説の変化の対比、短歌だけではなかった啄木の小説の現代からの読み直し、小説の言葉についてのOSという考え方等々は、文学史というものを的確に捉えるための実にわかりやすい斬新な視点と切り口であると思います。それは一朝一夕にできることではなく、氏がこれまでいかに多くの小説を丁寧に深く読み込んできたか、そしてそれをもとにいかに鋭い考察を巡らしてきたかの証左と言えます。


それにしても一葉や啄木の時代と現代を比べてみると、人間や小説というのは百年経っても変わらないものと変わるものがあるのだ、ということをあらためてまじまじと思い知らされます。文学史を学ぶというのは、結局はそのことを学ぶためだという意味なのでしょうか。


(海馬文学会:永田 祐司)