西村賢太『苦役列車』

(新潮文庫)


1967(昭和42)年生まれの作者は、今年2月タクシー乗車中に意識を失い病院に搬送されたが亡くなりました。54歳でした。本作は40代前半の2011年に、芥川賞を受賞しています。文庫本にはその2年前の09年に書かれた『落ちぶれて袖に涙の降りかかる』も収録されており、他にやはり同じ2月に亡くなった石原慎太郎の解説もあります。(なお彼は芥川賞選考委員としてこの作品を強く推しました)

受賞作は当時一度読んでいますが、それから10年ほど経ってあらためて読んでみると、またいろいろと違った感想が思い浮かんできます。特に『落ちぶれて…』と併せて対比させてみると、この作品がなぜ書かれたのかなどがおぼろげに推測できるようになります。


二作はいずれも貫多を主人公とする私小説で作者自身の姿が色濃く投影されており、『苦役列車』は貫多が20歳頃の、また『落ちぶれて…』は40歳頃という設定です。そして書かれた時期と併せて考えると、作者はまず40歳頃の自分の現実の姿を目の当たりにしながら『落ちぶれて…』を書き、その後で過去に遡って20歳頃の『苦役列車』を書いたことになります。20歳頃の貫多は自分の将来に大きな不安を抱えながら日雇い仕事を続けていますが、その不安は20年後にある意味で的中したことが『落ちぶれて…』の中に示されているわけです。いわば二つは合わせ鏡のような作品とも言えます。以下、ごく簡単にあらすじを記します。

 

『苦役列車』

19歳の北町貫多は素行の悪さと学業の劣等に加えて、父親が性犯罪者だったことから中学卒業後も就職できなかった。離婚した母親の克子からむしり取った金を手に家を出て、港湾の冷蔵倉庫での日雇い労働に従事する。日当五千五百円から千円だけ安ソープランド代に積立て、残りは飯代と酒代に消える毎日で、家賃滞納により追い立てを食らうこともあった。弁当が配られる荷役労働にもようやく慣れたが、友だちのいない一人暮らしだった。貫多は激し易い性格で、時には粗暴に振る舞うこともあった。

ある日、港湾の仕事仲間に専門学校生の日下部正二がアルバイトで加わる。水泳で鍛えた肉体を持つほぼ同年の陽気な彼に、貫多は好意を抱き親しくなる。二人は荷役とは違う倉庫の方で仕事をするようになり、日下部は運搬機器のプラッターも練習して器用にこなした。そして仕事が終ってからたびたび一緒に酒を飲んだり、覗き部屋やソープに行くが、その出費で貫多は家賃が払えず追い出される。彼は日下部から五万円を借り、板橋の三畳間に越す。

日下部は本格的に倉庫番見習いとなり、貫多と距離をおくようになる。つき合っている女子大生がいるらしい。わが身と引き比べた貫多は彼が羨ましくなり、彼女に女友だちを紹介してもらうため、一緒に野球観戦に誘う。青白い顔色であまり魅力のない鵜沢美奈子という女だったが、彼らが自分とは違うマスコミの話などをしているのを聞き、酒を飲んで暴言を吐く。この酔態から日下部との関係も悪化する。

貫多は酔って美奈子を日下部の部屋で凌辱することを想像しながら自慰をするが、父の血を思い慄然とする。日下部はアルバイトを辞めると貫多に話し、金は返してほしいと言う。貫多は悪びれることなく、真っ当な常識人の日下部に酔態の件を詫び、金は返すと約束する。ところが二日酔いで仕事に行き不機嫌な時に、前野という男と騒動を起こし、貫多は日下部より先に職場を出入り禁止となる。彼はまた家賃が払えず板橋を追い出され、横浜の戸部界隈に移る。しばらくして日下部から郵便局に勤めたとの頼りをもらう。貫多は誰からも相手にされず、その頃知った私小説作家藤澤清造の作品コピーを尻ポケットに入れ、相変わらずの人足仕事を続ける。

 


『落ちぶれて袖に涙の降りかかる』

40男の貫多は激しい腰痛に悩まされていた。すでに五日経つのに、今だ寝起きもままならずペットボトルを屎尿瓶がわりに、痛みをこらえながら這いずり回る生活をしていた。ちょうど短編の原稿料が入っていたのと深夜のアルバイトを勤め上げていたのが幸いしたが、老いつつあるわが身の行く末に心細くなっていた。他にすることもなく、うつ伏せで書きかけの小説に取りかかろうとしたが、内容の余りのバカらしさにその気も失せた。現在の唯一の光明は、文芸誌に掲載された短編が川端康成文学賞の最終候補になっていることだ。

彼より年下の担当編集者田端には、書いた作品を他社に持ち込んだり、約束をすっぽかすなど何度もひどい迷惑をかけていた。だが田端いわく大家中堅新人の区別なくあくまで作品の質のみで選考される、というこの賞だけは何としてもほしかった。

選考会が迫ってきた日、腰痛の薬を赤羽の病院でもらった帰り、ふと古本屋を思い出し立ち寄る。先年に野間新人賞の候補になった時、この店で講談社創業者野間清治の本を買って受賞したのにあやかろうとしたのだ。そこで川端康成の『みづうみ』の古書と、大正時代の文芸評論家堀木克三の『嘉村礒多の思い出』を見つける。堀木克三を読み、そのみじめな不遇の晩年に“落ちぶれて袖に涙のかかるとき人の心の奥ぞ知る”を思い浮かべ、自分の将来の姿を見た気になる。そして川端賞の選考会当日連絡を待つが、電話はならなかった。

 

それぞれこんなあらすじです。ストーリーとしてはどちらもそれほど紆余曲折があるわけではなく、主人公貫多を取り巻くごく狭い範囲の出来事を中心にした、しかも比較的短期間の話です。二作品が書かれた事情をありていに言えば、川端文学賞をもらえなかった作者が、次に芥川賞を狙って貫多の人生を遡り、その苦役に満ちた20歳前後の人足生活を私小説として描き出したのが『苦役列車』ということになります。

どちらにも共通するのは、私小説の伝統とも言うべき男というものの無様でみっともない生態を赤裸々にさらけ出している点です。それがどんなに汚辱に満ちた猥雑なものであれ、それを何ら隠すことなくストレートにかつ諧謔的に描写しています。その潔さは、建て前だけを重んじる現代社会では失われつつあるがゆえにある意味痛快です。そこに貫多の心情を重ね合わせることで、巧みな小説として仕上がっています。

 

そして主人公貫多は、どんなに悲惨な状況に置かれても決して自分を見失うことなく、どこかに希望を抱きながら生きています。それを支えているのは、物を書くことの喜びや矜持です。『落ちぶれて…』では受賞の知らせが届かなかったものの、また『苦役列車』では最後誰にも相手にされなくなっても、その後自分が師と仰ぐ私小説作家藤澤清造の作品コピーを常に尻ポケットにしのばせて生きていきます。

そこには物書きとして何とか世に認められたいとの強い意志と願望がうかがえます。それが最終的に『苦役列車』の芥川賞受賞によって果たされたのだと言えます。合掌。

 

(海馬文学会:永田 祐司)