二十歳の時、台北の大学の授業で、英文学を担当するS神父が文学作品における作法の一つ「意識の流れ」(stream of consciousness)について解説してくれた。用いた教材はジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」と「若き日の芸術家の肖像」、それにヴァージニア・ウルフの二、三作品だった。


紳士風の神父は流暢なキングズイングリッシュで説明していたが、いかんせん英語力が貧弱な私は、アクセントが強い英語にこそ聞き惚れていたが、肝心の内容は難解すぎて消化できなかった。

そもそも時空を超えている潜在意識とか、とりとめのない夢のような意識の流れなどが文学作品の中に組み込まれると、単細胞のような私にとっては理解が甚だしく妨げられる。その難解さにかこつけて、長年この疑問をうやむやに放置してきた。

 

それが今年三月中旬のある日、家族の朝食を用意していると、ラジオから「意識の流れ」という言葉が洩れてきてハッとした。NHKの畠山アナウンサーが、著者からの手紙という番組の中で、『青と緑ヴァージニア・ウルフ短篇集』の編訳者西崎憲氏にその「意識の流れ」という言葉の意味を問うていたのだ。

すると西崎氏は、人間の意識は常に流動的で理路整然とはしておらず、外界の客観的な描写と主人公のモノローグや不規則な意識の流れがごちゃ混ぜになった文章は、確かに理解しにくいと答えた。すかさず畠山さんは、もしかしたらピカソの絵の、人物をあらゆる角度から同時に描いてそのまま画面に放出したような感じ? と訊ねた。それに対して西崎氏は、とても明快な例えだと称賛していた。


私にはピカソの絵も今一つ理解しがたい部分があるので、なるほどなるほど、この例えなら私も頗る納得ができる。ということは、ピカソの絵も一種の「意識の流れ」ということなのか?


調べてみると、「意識の流れ」という用語は十九世紀のアメリカ心理学者ウィリアム・ジェームズが使い始めたそうだが、二十世紀以降は人間の真実を忠実に表現しようと、文芸上にもこの作法が用いられるようになったらしい。前述のイギリス作家達はその先駆者であり、日本では、伊藤整や川端康成、横光利一らがこの作法を試していた。


どうりで、昔、横光利一の『機械・春は馬車に乗って』という文庫本を読んでいた時、「機械」のモノローグっぽい文体や、句読点と段落の少ない長文には頗る苦労した覚えがある。それよりはむしろ「春は馬車に乗って」の、痛々しいが幾分のんびりした、病弱な妻と看病疲れの夫のやりとりの方がより印象が深かった。「機械」は、横光利一が「意識の流れ」という新しい作法を取り入れた作品だと言われている。

 

そして先月、海馬読書会で川上弘美氏の『神様』が取り上げられた。内田百閒の作品を愛読しているという彼女の著作の魅力について、代表作である『センセイの鞄』の巻末で、哲学者木田元氏が以下のように解説している。

彼女の著作においては、事実と幻想、生物と無生物、人間と動物、時間と空間などがすべて自由自在であり、それらの間に特に隔壁はない。これは、カフカやジョイスの流れにも繋がっている。


確かに川上弘美氏の作品を読んだ後で、何となく不思議な感覚に陥ったり、言葉では表せない微妙な余韻を覚えたりするのは、私だけではないだろう。

まだはっきりと掴めてはいない「意識の流れ」という文学作法であるが、彼女の作品を通して少しずつ楽しめるようになってきた。心の中で、私は秘かに彼女に感謝している。

 

(海馬文学会:千佳)※千佳さんは台湾出身