時空を超えた“生き物”に託して

愛おしき人間や自然の姿を表現


1958年生まれの作者は、お茶の水女子大学の理学部生物学科に入学し、SF研究会に所属した経歴を持ちます。96年に『蛇を踏む』で芥川賞を受賞し、現在はその選考委員を務めています。この『神様』は9つの短編から成り、99年に女流作家に贈られる紫式部文学賞と、一人だけの選者によるドゥマゴ文学賞を受賞しました。作者のあとがきによれば、結婚出産後まもなくの94年に子育てしながら書いた表題作の『神様』がデビュー作となり、その後中央公論社『マリ・クレール』誌に各短編がシリーズで連載され単行本になったようです。


9短編には30代の頃の作者のすべてが、凝縮されているような印象を受けます。その内容は多岐に及んでいますが、大きな特徴としては動物あるいはそれに類したような“生き物”たちが登場することです。そして多くの作品において、それらを取り巻く自然環境が重要な役割を果たしています。そのことを特に示しているのが、後年に書かれた『神様2011』です。作者にとって東日本大震災による原発事故は、自然環境の破壊という点できわめて大きな衝撃だったものと思われます。その止むに止まれぬ思いが、およそ17年後の2011年にこれを書かせた理由でしょう。

これらの各短編のモチーフはその後の作者の歩みの中で徐々に発酵して膨らみ、やがていろいろな作品として大きく結実したと考えられます。ひとまず9つの短編及び『神様2011』がどのような内容なのかをごく手短かに記してみます。


『神様』

最近引っ越してきた昔気質のくまと私は、散歩に出かける。川原に着くと父と子の三人連れがいた。子どもにパンチを受けるが、みんな無邪気だと言う。くまは水に入り魚を掴み、器用にナイフで開いて干す。二人で弁当を食べる。帰ってきて、抱擁をして別れる。くまは、神様の恵みがありますようにと言う。日記に悪くない一日だったと書く。

『神様2011』(※東日本大震災原発事故後の作品)

くまと私は川原に出かける。途中の道の土壌は汚染されている。川原に子どもはおらず、防護服を付けた男がいる。男たちはくまは放射線に強いと言う。魚を捕まえて水を注いで清めたが、食べない。帰ってきてガイガーカウンターで計測し、抱擁して別れる。日記を書き、総被爆線量を計算する。

『夏休み』

原田さんの梨畑で働いていると、白い毛の小さな三匹の生き物がいた。梨を食べ甲高い声で喋る。家に連れて帰ると、二匹は活発だが一匹は引っ込み思案だ。十日ほどして、夜に何かがずれる気がした。一匹が夜に姿を消したが戻ってきた。激しいずれが起こり体を抜けて畑に行くと、二匹は梨を食べ木の白い瘤になり、一匹もやがて瘤になった。

『花野』

秋の野原に、五年前死んだ叔父が立っていた。従姉や叔母のことを聞かれる。叔父は、思ってないことを言うと消えて還るらしい。人類の歴史をいろいろ訊ねた後、君の人生も秩序がないと言うと消えた。その後も神を信じる、政治が興味深い、永遠に眠っていたいと言うと還った。最後はくっきりあらわれ、いつかまた会おうと言って還った。

『河童玉』

寺でウテナさんといると、河童に相談があると言われ船で池へ入る。潜ると部屋があり、三百年来の女河童と閨がうまくいかず、人間界随一のウテナさんに相談したいと言う。聖なる石の河童玉もきかないし、目の前で試してもだめである。ウテナさんはきっと大丈夫と言って河童玉に坐って帰る。そして人間界の失恋から回復できたと喜ぶ。



『クリスマス』

ウテナさんにもらった壺から、コスミスミコという若い女があらわれた。冷蔵庫から食べ物が消え、料理して食べたと言う。壺に入ったのはチジョウノモツレによるとのこと。クリスマスに街に連れて行くと、いろいろあって大変だったと高いワインを飲む。ウテナさんも帰ってきてみんなでやけ酒を飲み、私はいつまでも壺にいればいいよと話す。

『星の光は昔の光』

隣りのえび男くんが学校のことや、家にほとんどいないお父さんとニンゲンフシンのお母さんとの三人家族の話をする。学校で作った牛や豚のいる箱庭を前に、お父さんはのびのび遊ぶ人間が好きなんだと言う。とりこみごとがあった年明けどんど焼きを見に行き、もらったミカンを食べながら昔の星の光はもう終わった光だと涙を流す。

『春立つ』

飲み屋のカナエばあさんは昔の身の上話をした。雪の町で立春の頃散歩に出ると斜面の底へ滑り落ち、男の家に住む。雪解けの頃、好きだと言うと目眩がして男が消えた。翌年も同じでしあわせだから帰ってほしいと言うと男は消えた。毎年続き何も思わなくなり、自分で帰った。そして引っ越した。若い者は依怙地だが、今は違うかもしれないと雪の町へ戻った。

『離さない』

エノモトさんから相談の電話があり訪ねる。二ケ月前に南方に旅をした時に海から連れて帰った人魚が浴槽にいた。人を惹き付けて離さないので預かってほしいと言われ預かると、私もエノモトさんと同じく浴室に居続けるようになった。二人で車で運び海に放り込むと離さないとの声が聞こえた。高熱が出て回復した後、エノモトさんは魅入られたねと言う。

『草上の昼食』

久しぶりにくまと散歩に出た。川原ではなく草原である。くまはしゃれた料理の弁当を広げた。長く住んでいたが、明後日故郷に帰ることにしたと言う。結局馴染みきれなかったらしい。雨が降り雷鳴が鳴ると、くまは直立してこわいほど大きな獣の声を出す。抱擁せずに別れた。くまと私と魚らしい絵を添えた名前のない手紙が来た。熊の神様にお祈りした。


このように各短編の中にはさまざまな人間や“生き物”たちが登場します。くまを初めとして、白い毛の小さな生き物、死んだ叔父さん、河童、壺に入った女、箱庭の牛、猫、雪の底の男、人魚等々です。作者にとってそれらはすべて愛おしい対象として同等に存在していて、そこには何の違いもありません。人間だろうが“生き物”だろうが、生と死、愛やセックス、憎悪や嫉妬、喜びや悲哀は同じようにあり、それぞれに神様がいます。鉱物のウランにさえ神様が宿っています。

ここには、作者にとって人間と自然とは愛しかつ慈しむべきものとして一体である、といった基本的な感覚が横たわっているように思われます。それはつまり男女や親子といった人間関係というものは、大きな自然の摂理にしたがっているという考え方でもあります。そこには、学生時代に生物学を学んだ作者の思いや志向が反映している気がします。


そのような独自の人間観や自然観を通して、人間や自然に対する深い洞察が生まれ、それが虚構としての小説に結晶します。そしてどの作品においても作者の奔放な想像力が飛翔し、時空や歴史を軽々と超えて行きます。そこには既成の価値観や観念にとらわれない、スケールの大きい伸びやかな意識が感じられます。それがまた、作品にSF的な味わいや趣をもたらす要素となっています。

私はそれほど作者の小説を読んでいるわけではありませんが、例えばその後書かれた主な代表作である『センセイの鞄』『ニシノユキヒコの恋と冒険』『水声』『大きな鳥にさらわれないよう』といった作品のいずれもが、この『神様』の短編集に凝縮されているモチーフがいろいろな形に深化して物語へと発展したように思われます。

特に2015年の読売文学賞『水声』や16年泉鏡花文学賞『大きな鳥にさらわれないよう』は、その大いなる飛躍ぶりを示す新しい作品として注目されます。


(海馬文学会:永田 祐司)