コロナ禍に責任転嫁をしたくないが、どうもこの頃思考停止になりがちだ。

いや、単に老化が進んだということかもしれない。それで奮い立って、年を跨ぐが昨年のブログの続きをすることにする。

 

昨年、向田さんの逝去四十年にあたり、NHKは一月にBSで「運命の分岐点 向田邦子」、七月にラジオで「声でつづる昭和人物史 向田邦子」という番組をそれぞれ放送した。幸運にも私は、七月の五日と十二日に、計四回の向田さんの肉声を享受できた。一つ目と二つ目は前のブログで述べさせてもらった。今回はその三つ目「小説を書き始めたきっかけ」と、四つ目「『思い出トランプ』という本のタイトル」について記してみたい。向田さんの肉声は、それぞれ9分と4分ほどである。

 

昭和四年生まれの向田さんは大学を出てから、ラジオ台本を十年間、テレビ脚本を十年間書き続け、ライターとして人気を得ていた。しかし四十九歳の時、乳がんを患う。手術はうまくいったが後遺症のC型肝炎に罹り、また利き手の右手が痺れで暫く使えなかった。それでライターの仕事を一休みし、使える左手でゆっくりと月一篇のエッセーを書いていた。それが『父の詫び状』となった。

エッセーは好評だったが、やはり家族などの関係者から顰蹙を買ってしまったため、小説に方向転換したという。手術による心境の変化が小説を書き始めた大きなきっかけになった、と彼女は述べている。

 

向田さんが最初に描いたいくつかの短篇は、とても好評だった。特に『かわうそ』は尊敬する先輩作家や編集者たちに褒められ、彼女としては自分の気持ちが一番素直に出ている作品なので非常に嬉しく、勇気づけられたという。まだ本は世に出ていなかったが、『かわうそ』『だらだら坂』『はめ殺し』の三短篇だけで「直木賞」を受賞してしまう。昭和五十五年のことである。慌てて半年間に残りの十篇を書き足し、受賞作の本を世に出したといういきさつがある。これらが三つ目の録音である。

 


四つ目の録音では、連作短篇集に「思い出トランプ」と題名をつけて直木賞受賞作にしたことが述べられている。大好きな汽車の旅にちなんでのことである。作中の主人公の人生は、汽車の窓に次々と表れては去って行く。あたかもトランプを切るように「サッサッサッ」と過ぎ去って行き、大事な一時だけが残される、との思いを込めている。

彼女は初め題名を深く考えておらず急いで決めたのだが、四種類の図柄に各十三枚というトランプの特徴に合わせ、全作品を十三の短篇にしたという。

その中でも、特に最終作にはとても苦心した。この『ダウト』(疑い)という十三篇目の作品は、サラリーマンの出世に絡む小さな駆け引きや猜疑心を、面白可笑しく描いたものである。それを書いている時は、果たして自分が本当に直木賞を受賞していいのかと疑問に思いながら創作した、と述べている。

 

これらの録音は、昨年一月の「運命の分岐点 向田邦子」という一時間弱の特別番組にも入っている。

運命の分岐点? このタイトルの意図を私はいまだにうまく掴めないのだが、どういうことなのだろう。事故後の記事で知ったのは、彼女はもともと昭和五十六年八月に中国のシルクロードへの取材を予定していた。それが急遽キャンセルされたため、台湾行きへと方向を変更する。そして台湾南部の空で、虚しく痛ましく散ってしまった……

こういうあってはならないことが、向田さんにとって、いやそれは私にとっても永遠の運命の分岐点ではないかと、いまだに私自身は未消化のまま複雑な心境を抱えて生きている。

 

こうして八月二十二日は、私にとって十一月二十三日勤労感謝の日ではなく樋口一葉の命日として)と並んで、生涯忘れられない悲しい日となっている。


(海馬文学会:千佳) ※千佳さんは台湾出身