もうひとりの自分を思い出す・・・

もうひとりの自分を思い出す・・・

これまでの歩みや、セラピストとしての日々を通して感じたことを、 ゆるやかに綴っています。

前回のVol.2では、高山病で八合目救護所を受診し、ドクターストップ。

何か月も準備してきた富士登山でしたが、私は山頂を目指すことを諦めました。

でも、本当に苦しかったのは、そのあとでした。

 

 なりふり構わず、再診

 

登頂を目指す仲間たちは、仮眠の時間に入りました。

私も横になりました。
 

でも、体は疲れているのに、

吐き気で眠れない。
 

横になると呼吸が浅くなるような気がする。

心臓の音が、やけに大きく聞こえる。

「動悸がしているかも」

そんな不安がどんどん大きくなっていきました。
 

部屋で休んでいる仲間を起こしたくなくて、私はそっと山小屋を出ました。

救護所の医師と看護師さんが、

「24時間待機していますから、何かあったら夜中でも来てくださいね」

と言ってくださっていたことを思い出し、再び救護所へ。

『また来た』って思われないかな?
そんなことを気にしている余裕はありませんでした。
 

寒さではないのに、ぶるぶる震えながら、
 

「ど、どうきが……」
 

今思えば、もっと普通に言えたと思うのですが、あの時は本当にそんな感じでした。
 

測ってもらった血圧は、上が
 

170
 

普段なら、まず見ることのない数字です。

その数字を見て、さらに不安になりました。

 

 まさか、富士山で「死」を考えるとは

 

富士山へ行く前、ニュースで何度か目にしていました。

「富士山〇合目で〇代男性が死亡」

その言葉が、急に自分ごとになりました。
 

私も、ここで死ぬのかもしれない。
 

今なら、少し大げさだったのかもしれないと思えます。

でも、あのときの私は本気でした。
 

日常なら、具合が悪ければ家に帰れる。

病院にも行ける。

タクシーにも乗れる。

誰かに助けを求めることもできる。
 

でも、ここは標高3,000メートルを超えた世界。
 

すぐには帰れない。

逃げ場がない。
 

そのことが、身体の苦しさ以上に、私を怖がらせていたのかもしれません。
 

診察をしてくださった医師は、

「下山したら、嘘みたいに楽になりますから大丈夫ですよ」

と声をかけてくださいました。
 

看護師さんも、今すぐ命に関わるような状態ではないことを説明したうえで、

「大丈夫ですよ」と。
 

その言葉を、私は今でも覚えています。

 

 「大丈夫」が、こんなに欲しかった

 

あの夜、私が欲しかったのは、励ましでも、根性論でも、「頑張って」でもありませんでした。


欲しかったのは、
 

「大丈夫」
 

という言葉でした。
 

ここは安全だ。

あなたは一人ではない。

ちゃんと下山できる。

そんな安心が欲しかった。
 

潜在意識というと、夢や願望、「本当はどうしたいのか」という話を思い浮かべることが多いかもしれません。
 

でも、そのもっと深いところには、

生きること

安全であること

苦痛から離れたいこと

そして、

安心すること
 

そんな、とても原始的で根源的な欲求があるのだと思います。

 

 祈りより先に、「楽になりたい」

 

事前登山の三つ峠では、

自分のあとに続く日本人のために。

この国のために。

祈りを捧げたい。

そんな壮大なことを、本気で考えていました。
 

でも、あの夜の私には、この国の安寧を願う余裕なんてありませんでした。
 

今夜だけは、
 

自分が楽になりたい。

それだけ。
 

自己中心的で、本能的で、根源的な欲求。

そして、その奥から、もうひとつの願いが出てきました。
 

生きて帰りたい。

 

 娘を残して、死ねない

 

私にはひとり娘がいます。
 

もし、ここで何かあったら。
愛娘は、どれだけ悲しむだろう。
 

そう思った瞬間、「死にたくない」ではなく、もっとはっきりと

「生きたい」
と思いました。
 

娘のために、生きて帰りたい。

家族のために。

愛する人のために。

生きたい。
 

あの夜、私の祈りは、とても個人的なものになりました。
 

でも今は思います。

祈りが小さくなったのではない。

余計なものが削ぎ落とされて、いちばん根っこのところにあった願いが出てきただけなのかもしれません。
 

 

 重い病で寝たきりの父を「わがまま」だと思っていた

 

そして、そのとき思い出したのが、2025年春に亡くなった、私を育ててくれた父でした。

母と再婚し、10歳だった私の父になった人です。
 

父は肺気腫で15年以上、闘病していました。
 

末期には、酸素を供給する医療用機器がなければ生活できない状態でした。
 

それでも苦しいものは苦しい。
 

食事をするだけで息が上がり、そのたびに母を呼んで、

「さすってくれ」

と背中をさすってもらっていました。
 

昼も夜も関係なく、母を呼ぶ。

娘である私たちが代わろうとしても、だめでした。
 

父が求めていたのは、母でした。
 

発作を起こして緊急入院したときも、コロナ以降、病院での付き添いは短時間。

ましてや、付き添いで泊まることは原則できませんでした。
 

それでも父は、

「妻がいないと眠れない」

と、子どものように病院に訴えました。
 

病院側も仕方なく、母の付き添いを許可してくださったことがありました。

看護師さんでは落ち着かず、会話にならず、夜中に病院から母へ、

「すぐに来てください」

と電話が入り、母が慌てて病院へ向かう。

すると、それまで苦しそうだった父が、少し落ち着く。

そんなこともありました。
 

正直に書きます・・・
 

当時の私は、そんな父を「わがままだ」と思っていました。
 

母だって介護で疲れている。

母だって眠りたい。
 

「お願いだから、母を少し休ませてあげて」

と思ってしまったこともあります。
 

父に生きてほしくなかったわけではありません。
 

でも、苦しさに耐えきれなくなった父が、
 

「もうしんどいから、殺してくれ」
 

とつぶやくほど苦しいのに、
それでも深い呼吸法を続け、薬を飲み、苦しくなれば母を呼び、必死に生きようとする
その言動が矛盾した姿を、

私はどこか少し引いて見ていました。
 

「そこまでして、生きたいんだ」と。

 

 父も、愛する人のために生きたかった?

 

でも、山小屋での夜。
 

呼吸が苦しくて、動悸がして、

「このままどうなるんだろう」

「私も死ぬのかもしれない」

と怖くなった私も、結局求めていたものは亡き父と同じでした。
 

誰かにそばにいてほしい。

「大丈夫」と言ってほしい。

安心したい。

生きて帰りたい。
 

八合目救護所で看護師さんから、

「ろうそくの火を消すつもりで、肺を空っぽにするように息を吐いて」

と呼吸法を教えてもらったとき、父の姿が浮かびました。
 

私は、父の苦しさを何度も目の前で見てきました。

「苦しいんだろうな」

とは思っていました。
 

でも、分かっていたつもりだっただけなのだと思います。

私は、富士山でたった一晩。

父は、それを15年以上。

たった一晩の高山病で、父の15年を分かったなんて、とても言えません。

それでも、父の苦しさを0.00001%くらいは、頭ではなく身体で理解できたような気がしました。
 

そして、今になってもうひとつ思うことがあります。
 

父は本当に、ただ「生きること」に執着していたのだろうか。

もしかすると、父も母を残して死ねなかったのかもしれない。

自分が先に旅立つと独りになってしまう母のために、もう少し生きたい。

母のそばにいたい。

母のために生きたい。

そんな一心だったのかもしれない。


それは、今となっては父に聞くことはできません。
 

でも、山小屋で「娘のために生きて帰りたい」と願った私は、父のあの必死さを、以前とは少し違う目で見られるようになりました。
 

あれは、わがままだったのではなく、

怖かったのかもしれない。

苦しかったのかもしれない。

安心したかったのかもしれない。

そして、

愛する人のために、生きたかったのかもしれない。

 

 「死と再生」は、美しくなかった

 

その夜、私は結局、吐き気でほとんど眠れませんでした。

仮眠している仲間を起こしたくなくて、ひとりで山小屋の広い玄関に座って過ごしました。

そこが一番、楽でした。
 

処方された高山病の薬の影響で、1時間おきにトイレへ行くたびに外へ出ました。
 

でも、星空を見ても、きれいだと思う余裕なんてありませんでした。
 

ただ、太子館(山小屋)のスタッフさんや、救護所の医師、看護師さんの言葉やお気遣いだけは、今でもはっきり覚えています。
 

人は、追い込まれたとき、最後に何を求めるのだろう。
 

私の場合は、
 

安心でした。
 

そして、

愛する人のもとへ、生きて帰ることでした。
 

富士山へ入る前、私は「死と再生」という言葉に、どこか美しいものを感じていました。

でも、実際に私が経験した「死と再生」は、もっと泥くさくて、もっと人間的なものでした。
 

生きたい。

安心したい。

愛する人のもとへ帰りたい。

それが、あの夜の私の深いところから現れた、いちばん根源的な欲求でした。

(続)

Kai