〝魅力とは努力する意志、まなざし、歩き方、声の響き、身振り、手振りのことだ。頂点に立つのに美形である必要は全くない。必要なのはこの魅力だけである。〟
19世紀末フランスの美しき時代と呼ばれるベル・エポックの時代を象徴する大女優、サラ・ベルナール。
生涯舞台に立ち続け、全身全霊をかけて演技し、〝劇場の女帝〟〝聖なる怪物〟と呼ばれ、インターネットのない時代、世界で初めて五大陸すべての舞台に立ち、国際的なスターとなりました。
ベルエポック期のカリスマ女優である、サラ・ベルナールは〝カンメーム(なにがなんでも)〟を、モットーとしており、その言葉を見事に実践してみせた行動力、60歳を過ぎても若く美しい男に恋をし、不自由な体をおして舞台に立つ情熱も持っていました。
サラは1944年10月22日に生まれました
母親ジュリはまだ、18歳でした。母親ジュリは高級娼婦であり美貌と才気を武器に生きる人工の花でした。
父親はル・アーブルの名門の息子でソルボンヌ大学の学生だったため、サラは生まれてすぐにブルターニュの農家に預けられました
(母ジュリとサラ)
母親ジュリはふたたび高級娼婦としてめきめき売り出し、地位も名誉もあるパトロンを持ち、貴族夫人のようなサロンを開き、同じく高級娼婦である姉とともに贅沢三昧の日々を送っていました。
母親は恋人との生活を優先したため、パリの寄宿学校に送られたり、9歳にはベルサイユの貴族の子女がいく修道院で育てられ、孤独な少女時代を過ごしました。
16歳の時にサラは修道院を出て母親と一緒に暮らすようになりますが、母親の屋敷にはたくさんの男性が出入りしており、また父親違いの妹ジャンヌを母親は偏愛していました
母親はサラの父親から結婚の際の持参金を受け取っているため結婚させようとしていましたが、母親のパトロンであるモルニー公が女優になることを薦め、モルニー公の口添えで国立音楽演劇学校に入学しました。
音楽学校を卒業後、母親のパトロンのひとりであった文部大臣の口添えでフランス一の名門劇場、コメディ・フランセーズと契約し、舞台に立つように
(18歳のサラ)
名門の劇場でデビューを果たしたサラは姿の良さ、そして後に『黄金の声』と称えられる声の良さを評価されますが一年後に先輩女優ナタリーと喧嘩して顔を殴り、主役の座を下されたため負けず嫌いのサラはコメディ・フランセーズを退ることになってしまいました
その後はまた母親のパトロンのコネでジムナーズ座と契約しますが舞台女優としての成功はいまだ果たせていませんでした。この時期にベルギー王子、ド・リーニュと恋に落ちますがサラが身籠った途端ド・リーニュは冷たく離れていきました。
(20歳のサラ・ベルナール)
私生児として生まれたサラは1864年自身も私生児モーリスを出産
しかし負けず嫌いで意志の強いサラはどん底から這い上がり、22歳でオデオン座と契約、オペレッタという喜劇に出演し生活費を稼ぎ、28歳でフランスの国民的作家ヴィクトル・ユゴーの大傑作、『リュイ・ブラス』の王妃を演じかつてない大成功をおさめたサラはフランスを代表する大女優となりました。
(サラには集客力があり、その一つに有名な椿姫があります。椿姫は高級娼婦であり、サラの母親も高級娼婦、サラ自身も手持ちのお金がない若い時高級娼婦のような仕事をしていた節があるとのことで演じやすかったのかもしれません)
そして大女優となったサラに一通の手紙が届きました。それはかつて先輩女優と喧嘩して退ったコメディ・フランセーズに復帰して欲しい、という内容で10年ぶりにコメディ・フランセーズに戻り次々に舞台を成功させていきました。
1880年サラは自らの名を冠した『サラ・ベルナール劇場』を立ち上げ、1899年にはパリ私立劇場を借り上げ、『サラ・ベルナール座』とするなど、興行主であり監督兼俳優としての地位を不動のものとしていきました。
精力的に海外公演にいきましたがその時サラには14万フラン(1億4300万)の借金がありましたが海外公演で266万フラン(26億)を稼ぎだしました。
しかし衣装や舞台、豪華な暮らしとなにかとお金がかかりサラはいつも借金まみれだったといいます。
サラは面倒見がよく、義理堅い人間でした。冷たかった母親、麻薬中毒になってしまった妹の面倒も見、1882年に結婚した夫ダマラもモルヒネ中毒でしたがサラが最後まで面倒をみました。
(夫ダマラは34歳で死去)
多くの近しい人々がサラより先に死んでいきました。
(夫ダマラ)
サラは79歳までいきますが、舞台で怪我をして右足を切断することになるという不幸にあいながらも、〝カンメーム(なにがなんでも)〟をモットーとするサラは死の直前まで仕事を続けました。
サラは寝る時はベッドではなく本物の棺を使っていたといいます。今日1日、死んでもいいつもりで精一杯生きるためだったのでしょうか?1923年にサラが死んだ時遺体がおさめられたのはベッドがわりに使っていた棺でした。
サラが生きた当時、女性の地位は低いものでした。女性は男性に尽くすのが当たり前の時代で芸術の世界でも『高尚で創造的な芸術は男性しかできない』と女優は低く見られていました。
しかしサラは社会に根づいていた差別意識に負けませんでした。
女優として成功する一方で劇団を経営し、自立した女性として生きたサラは唯一無二の女優として葬儀の際は政界、社交界、芸術界の有名人はじめ、多くの市民がつめかけました。
(晩年のサラベルナール)
薔薇の木でつくった棺に横たえられたサラは生前に指名した7人の俳優の手によって葬儀場へと運ばれていきました。