鳥尾鶴代さんは著名な画家の孫娘として生まれ、学習院を卒業し、子爵夫人となり華族として生き、戦後はGHQの大物の恋人としてGHQの影の女王と呼ばれ、後年は銀座のマダムとして活躍しました。
しかし長い長い人生、幸せと不幸せは背中合わせ、幸福ばかりが長続きするものではなく、時代に翻弄され、波瀾万丈の人生を送りました。
(婚約時代の鶴代さん)
鳥尾鶴代は1912年5月25日に、著名な日本画家で貴族議員の孫娘として英国大使館裏にあった大きな屋敷で下條鶴代として生まれました。
(鶴代の祖父で日本画家、下條正雄)
鶴代さんはは祖父から溺愛され大きな屋敷で女中たちにかしずかれ、女王様のように蝶よ花よと大切に育てられました。
鶴代さんは両親が美男美女だったため、成長すると頭もよく大変美しい女性に成長しました。
頭が小さく、首が細くスタイルがとてもよかったそうです。映画スターにスカウトされたこともあったみたいです
鶴代さんは華族しか基本的入れない学習院へ入学しました。
(華族の子女が通った学習院)
学習院は華族のための学校だったため、華族の令嬢たちは月謝はいらなかったみたいなのですが平民の鶴代さんは月謝を払わなければならずその事で同級生から見下され、意地悪をされたこともあったそうです
鶴代さんは学習院に入学して1年半後、溺愛してくれた祖父が亡くなってしまいます
鶴代さんの父親は長男ではなかったため大きなお屋敷を相続することはできず、慣れ親しんだ屋敷を出て行かねばならなくなりました
(戦前、華族たちは鹿鳴館で夜会を開いて贅沢に暮らしていました)
鶴代さんの父親、下條小四郎は美青年でおしゃれで女性がほっておかないようなとてもモテる男性だったみたいです。父親の周りにはいつも美しい女性が絶えなかなったみたいです。
鶴代さんの父親は三井物産に勤めていたのですが、贅沢に慣れてしまっているので帝国ホテルに住んだり、パーティを開いたり、財産を浪費していきました
その後父親は三井物産をやめ、飛行機の会社を作るが失敗してしまい、下條家はだんだんと下り坂、生活に困っていき借家住まいとなっていきました。
(初めて日本髪を結った鶴代さん)
鶴代さんは適齢期になると華族と結婚し、華族になりたいと強く望むようになりました。
女王様のようにチヤホヤと育てられた鶴代さんにとって学習院で華族のお姫様たちから華族でない、という理由で意地悪されたことはとてもつらいことだったのです。
若い大金持ちや実業家か東大出のエリート社員とお見合いもしますが鶴代さんはターゲットを子爵、鳥尾敬光に定めます。
1933年、20歳で鶴代さんは子爵、鳥尾敬光と結婚し子爵夫人となりました。
(夫、鳥尾敬光、鳥尾鶴代)
夫の子爵、鳥尾敬光は22歳で背が高く、とても魅力的な青年でした。
結婚後に鶴代さんが暮らした小石川の屋敷は庭だけで7千坪、貸家も入れると2万坪もある広大なもので、執事がおり、お菓子から洋服まですべて御用聞きが注文を取りにくるので鳥尾家では女中まで店に買い物に行く必要がありませんでした
またお金は不浄なものとされたため、自分で支払うのではなく、すべてツケであとで執事が支払う、という別世界のような暮らしでした。
鶴代さんは1933年に長男、鳥尾敬考を、1935年に長女、絵美を出産します。
(家族写真、子供と共に)
夫の子爵、鳥尾敬光は大学卒業後、貸家からの収入もあるため特に働いていませんでしたが鶴代さんのすすめで自動車関係の会社で働くことにしました。
鳥尾家には後見人として鳥尾家を守っていた男性がいたのですがその後見人は事業に失敗し、亡くなってしまいます。その後見人は鳥尾家の人々にじゃんじゃんと贅沢をさせた上に失敗に失敗をかさね、勧業銀行から大金を借りてもいたため破産、広大な屋敷を維持することができなくなり、世田谷区に600坪の家を買いました。
(鳥尾家の人々)
その後、第二次世界大戦になると夫は出征し、鶴代さんは夫の祖母の介護をすることになりました。
物資もなく、老人ホームもない空襲がある戦禍中の介護は壮絶なものであり、華族の一人息子として大切に大切に育てられた夫は戦時中役に立たず、だんだんと夫婦はすれ違っていきました。
戦後に官房長官の奥様からGHQを官邸に招いてパーティーするのだが、英語が話せる上流夫人がいないということで鶴代さんはそのパーティーに出席することになりました。
少女時代から大公使館に招かれていた鶴代さんは英語が話せて外国人に物怖じせずに会話できる数少ない日本人女性だったのです
1946年、鶴代さんはGHQ民政局次長チャールズ・ケーディス大佐と出会います。
鶴代さんは外国人であるGHQの人々に気に入られるため物のない時代に美しい高価な振袖をなんとか用意したといいます。
(敏腕と美男ぶりで知られたGHQの大物、チャールズ・ケーディス大佐)
チャールズ・ケーディスはハーバード大学を卒業したあと弁護士となり日本国憲法制定にあたってはGHQの草案作成の中心的役割を担い、戦後の日本に大きな影響を与えた大物でした。
ケーディスは夫、敬光の持っていないものすべてを持っていました。
決断力、包容力、女性をいたわり、守り養う力、、鶴代さんとケーディスは不倫関係となっていきました。
(天皇という存在を日本の象徴という位置付けにしたと言われるケーディス大佐)
ケーディスは鶴代さんに天皇陛下をどう思っているか、戦犯にすべきか退位すべきか、意見を聞いたと言われています
鶴代さんがGHQの大物、ケーディスのご寵愛の方、という話は広まっており、李王妃殿下の屋敷がGHQに没収されそうなためなんとかして没収しないで欲しい、など口利きを頼まれることもよくあったそうです
そして頼まれるまま政治家たちの公職追放の解除や実業家たちの新事業の許可願の口利きをしてあげていました。
(ケーディス大佐と鳥尾鶴代)
ケーディスは鶴代さんを愛していたらしいのですが元華族夫人をアメリカに連れて行くのはよくない、というマッカーサーの忠告もあり、1948年に2人は別れ、ケーディスはアメリカに帰国しました。
戦後、夫の敬光は自動車の修理工場を作っていたがうまくいきませんでした。借金を背負い、苦しみを紛らわすため毎晩お酒を飲み、1949年、脳溢血で亡くなってしまいます。
(マッカーサー元帥)
37歳で寡婦となった鶴代さんは子供たちを一人前にするために洋裁店で働いたり、GHQにコネのあった鶴代さんは渉外部長として働いたりしていました。
1950年青山に150坪の家を買った頃、近所に住んでいた、森財閥の息子で後の衆議院議員の森清と不倫の恋に落ちます。
鶴代さんは38歳で森清は年下の34歳でした。
やがて2人は結婚を約束し、鶴代さんは唯一の財産である青山の自宅を売却し、2人の新たな生活費として家を売却したお金を森側に渡しますが、森清側の離婚話しがうまく行かず、鶴代さんはだんだんと生活費にも事欠くようになりやがて質屋通いをし、その結果神経衰弱となり睡眠薬と神経安定剤をのみ、自殺を試みます。
しかし一命はとりとめ、1953年に銀座にバー、その名も『鳥尾夫人』を開店させ、銀座のマダムとして活躍します。
ケーディスとの恋愛などでマスコミを騒がせていた鶴代さんのお店は繁盛したといいます
(銀座にバー、マダム鳥尾を開店させました。元子爵夫人という話題性から繁盛したようです)
毎日新聞時代の安倍晋太郎も遊びにきていたみたいです。
一時別れていた森清と再会した鶴代さんは金銭的な富よりも森清を選び2年8ヶ月でバーを閉店させました。
その後森清との関係は続きましたが1968年に森清は病気のため52歳で死んでしまいます。2人の17年に渡る恋は終わりを告げます。
(後年の鳥尾鶴代さん)
晩年の鶴代さんには3つの試練が襲ってきました。
一つは長男敬考の死であとの二つは乳がんになってしまったことと胃潰瘍を患ったことでした。
そして1991年12月27日に79歳で死去しました。
昭和を華やかな恋に生き、美貌と才能で知られた鶴代さんは1969年に『おとこの味』というとんでもないタイトルの本も出版しています。
(戦後、華族制度の廃止により数多くの家族が没落、崩壊していきました。その時代を描いた映画、安城家の舞踏会)