キャサリン・ロザリー・ジェラルド・デュテは18世紀にフランスで活躍したクルティザンヌでありダンサーです
ロザリーの名声は〝古代ギリシャのライスやフリュネ、インペリアやマロツィアにも匹敵する〟と言われた当時最も有名なクルティザンヌの1人でした。
また躊躇いがちな話し方から愚かなブロンドと呼ばれました
(1775年のロザリー リエ・ルイ・ペラン・サンブルー画愛人アルトア伯爵の依頼。〝かわいい〟を詰め込んだロザリーの容姿はフランスロココの典型的な美人)
1748年11月23日にヴェルサイユで王宮の召使であるジャン=フランソワ・ジェラールとその妻ルイーズ=ロザリー・コーモンの間に生まれました。
パリのサントア修道院を出た15歳のロザリーは叔母のマダム・デュバルの元に預けられることになりました。
叔母は姪にヴェリエールのマリーとジュヌヴィエーヴリントーという2人の有名な娼婦を紹介します。
この2人の娼婦はピンク色のほおで金髪が美しいロザリーがクルティザンヌとして向いていると思い、ダンタン通りにある自宅に連れて行き、教育しました。
ロザリーはここであらゆるスキルを学び、恋人たちからお金を得るスキルを身につけて行きました。
(ぶらんこで有名なフラゴナールが描いたロザリー)
ロザリーの最初のパトロンはディロン伯爵の息子で44歳のナルボンヌ大司教のアーサー・リチャード・ディロンでロザリーは17歳でした。
しかしこの関係は短命に終わります。
ロザリーの美しさはこの時点ではフランス王族には知られていませんでした。
しかし1766年に19歳の若き公爵を魅了しフランス王族たちにも知られていくこととなりました。
後にロザリーはパリオペラ座のダンサーとなり、デュフォール公爵、ゲンリス侯爵、シャルル10世を魅了しました。
(踊るロザリー・デュテ)
またロザリーの美しさと評判は国王ルイ15世にも届いていました。
(フランス国王ルイ15世)
パリを訪れたデンマークのクリスチャン7世でさえロザリーに魅了されたといいます。
(デンマーク国王クリスチャン7世)
ロザリーはピンクが好きでいつもピンクの服を着ていました。
ある人はロザリーを
〝彼女はパリで最も美しい女性の1人です。背が高く、スタイルがよく、顔色が素晴らしく、とても愛嬌があり素晴らしい髪をしている〟
と宣言しました。
オルレアン公爵ルイフィリップは息子でまだ15歳ののちのフィリップ1世にロザリーを紹介したと言われています。
ロザリーは名声と財産を手入れたことによりフランス最高の画家たちから肖像画をかかれることになります。
後のシャルル10世となるアルトア伯爵は26歳のロザリーの肖像画を見てその美しさの虜になったといいます。
(後のシャルル10世、アルトワ伯爵ルイ16世の弟アルトワ伯爵はどんでもない遊び人だったみたいです。)
アルトア伯爵は当時妻、マリー・テレーズが最初の子を妊娠していたのですが、ロザリーに宝石やお金をプレゼントし、1775年から1776年までの半年間関係を楽しみました。
(アルトワ伯爵の妻、マリー・テレーズ)
この関係が続いた間ロザリーは王妃マリー・アントワネットによりシャンゼリゼ通りから追い出されました。
ロザリーが王妃マリー・アントワネットより高価な花で飾らせた馬車に乗っていたからでした
(ルブラン夫人が描いたマリー・アントワネット)
ロザリーは8頭の白い馬に金色の馬車を引かせドライブすることで有名でした。
アルトア伯爵はリエ・ルイ・ペラン・サンブルーに依頼して風呂の端に裸で座っているロザリーの絵を依頼しました。
この絵画をアルトア伯爵はブローニュの森にあるバガテル城に飾っていたといいます。
しかしその後アルトア伯爵の興味はロザリーからマドモアゼル・ミシュロというバレエダンサーに移ってしまったみたいです
ロザリーを描いて画家は他にはジャン=オノレ・フラゴナール、ピエール=ポール・プルドン、ジャック=アントワーヌ=マリー・ルモワンヌがいます。
(18世紀の後半のフランスを代表する画家であるフラゴナールの代表作、ぶらんこ1768年)
さらに彼女の胸像を制作した彫刻家にはジャン=バティスト・デフェルネ、ジャン=アントワーヌ・フードンがいます
(1776年のロザリー。マリー・アントワネットの画家で知られるルブラン夫人画、しかしロザリーが直接モデルになったわけではないとか)
ロザリーはフランスだけに留まらず、イギリスへいき、第3代エグレモント伯爵で裕福な英国の金融家のジョージ・ウィンダムの愛人になりました。
(第3代エグレモント伯爵、ジョージ・ウィンダム)
ロザリーはフランス革命が起きるとイギリスに留まりました。ロザリーは亡命者とされてしまい、モンブラン通りとショセ・ダンタン通りに持っていた邸宅は没収されてしまいました。
ロザリーは40歳ほどになっていましたがその魅力を失ってはいませんでした。
(1779年のロザリー大英博物館)
1792年友人で銀行家のジャン・フレデリック・ペルゴーの助けを借りて財産を取り戻すためパリに帰国しました。
(ジャン・フレデリック・ペルゴー。ちなみに椿姫マリー・デュプレシーの夫となるエドワード・ペレゴーは孫です)
このペルゴーは1808年にヴィリー・シャティヨンの壮大な城で亡くなった時、ロザリーの肖像画を眺めながらと言われています
(1792年頃のロザリー)
ロザリーは1816年までロンドンにいたがその後再びパリに戻りました。
晩年はほとんど目が見えず老齢になったにも関わらずロザリーのファンたちはロザリーの元を訪れ、ロザリーは平和に暮らしていました。
1830年9月24日に82歳でロザリーは亡くなりました。
(アントワーヌ・ベスティエによるロザリー)
パリ最大の墓地、ペール=ラシェーズ墓地の2本の杉の木の下にロザリーは埋葬されました。
(ペール=ラシェーズ墓地)
(18世紀ロンドンの娼館で生きる娼婦のドラマ、ハーロッツ)