バーバラ・ハットンはとんでもなくお金持ちの家に生まれたため、劇作家ノエル・カワードに〝プア・リトル・リッチ・ガール(可哀想な小さなお金持ちの少女)というニックネームをつけられた少女でした。
またヴァンクリーフ・アーペル、カルティエなど高級宝石のコレクターとしても有名でした。
(ヴァンクリーフ・アーペルのバーバラ所有していたフェアリークリップ)
(ヴァンクリーフアーペルのフェアリークリップは1940年代からソーシャライトたちに人気だった見たいです)
お金持ちの家に生まれることは素晴らしいことに思えますがとんでもないお金持ちの家に生まれたバーバラは不幸と孤独を感じることとなった。
1912年11月14日、バーバラ・ハットンはニューヨークで生まれました。
父は株式仲買人のフランクリン・ハットンで母親はエドナ・ウールワース。
(バーバラの母親のエドナ・ウールワース)
母親方の祖父はアメリカ各地にあるスーパーマーケット、ウールワースの創始者でした。
1879年にペンシルバニア州に1号店を出してから安売りと価格を明示した商法で大成功を収め、バーバラが生まれた時には1000店舗をもつ巨大企業に成長していました。
(バーバラの祖父でフランクリン・ウールワース。孫娘に莫大な財産を残す)
祖父はイタリア・ルネッサンス建築を模した豪邸に住み、部屋数は60、ガレージだけでも18ありました。
バーバラが生まれた翌年にはマンハッタンに60階建のウールワース・ビルも建設。
祖父のフランクリン・ウールワースは孫娘、バーバラを最上階の部屋に呼び〝この町はみんなお前のものだよ〟といい、窓の景色を見せました。
しかしバーバラの両親の仲は良くありませんでした
父はイエール大学出身のエリートで派手好きの女性関係の絶えない男だったからです。
母親は大金持ちの娘だというのに社交界が嫌いで内気な性格だっため価値観が合いませんでした
精神不安定になった母、エドナは1917年、ニューヨークの高級ホテル、プラザ・ホテルの一室で睡眠薬を飲み自殺しました。
まだ23歳の母、エドナは自分の体をアイリスの花で飾って死んでいました。
父親はガールフレンドと外出していたため、5歳のバーバラが母親の死体の第一発見者となってしまいました。
後年、バーバラはアイリスの花を愛すようになり、メイドがアイリスを無造作にゴミ箱に捨てただけでクビにしたこともありました。
母親の死から2年後、祖父が67歳で死去するとその遺産の一部がバーバラに送られ、7歳にして1400億円を相続し、〝世界で1番お金持ちの少女〟となった。
しかも父親は利殖の才能があったため、株式に投資とバーバラの財産をどんどん増やしていった。
父親は親としての愛情が薄かったので母親のいなくなったバーバラは親戚の家や寄宿学校を転々とすることになったがお金が桁外れにあるせいでどこにいっても敬遠される存在でした
パーティにでると『お金があると幸せも買えるんでしょ』と女性陣から嫌味を言われたり、ウールワースは安売りスーパーだったために従業員は低賃金で長時間労働を強いられており周りから思われておらず、腐ったトマトや硫酸をかけられた時もありました。
父親はバーバラが21歳になり社交界デビューを迎えたとき、記念してニューヨークの高級ホテル、リッツ・カールトンでパーティを開いてくれました。
4つのオーケストラ、200人のウェイターを雇った豪華なもので、名門の御曹司も招待しましたが、財産目当ての男だと思われたくないため誰一人バーバラをダンスに誘う人間はいませんでした。
さらに1930年代、アメリカ大恐慌真っ最中だったため、この豪華なパーティひとつで飢えた人々を救えるのに、、とバッシングされました。
バーバラが不幸を一時でも忘れていることができたのは男性といるときだけでした。
バーバラ・ハットンは生涯で7回結婚し、離婚しました。
そのほとんとがバーバラの財産目当ての男性でした。
初めての結婚は20歳で相手はグルジアの王子と名乗りましたが偽王族だったようです。
(バーバラの初めての結婚相手、アレクシス・ムディバーニ。)
バーバラは祖父からマリー・アントワネットが愛用していた真珠のネックレスをプレゼントされ、それを付けて結婚しました。
2番目の結婚はデンマークの伯爵でした。
3番目の夫はハリウッドスター、ゲイリー・グラントですが3年後に離婚。
(ゲイリー・グラントとバーバラ。)
4番目はロシア貴族でした。
(4番目の夫はカーレーサーでもありました。)
5番目の夫はドミニカの外交官ポルフィリオ・ルピノザです。バーバラは41歳でした。
かつてドミニカの独裁者の娘と結婚したこともあるプレイボーイで、第二次世界大戦中にはフランス最高の美女と称えられた女優ダニエル・ダリューと結婚していました。
(フランス最高の美女と言われたダニエル・ダリュー)
ポルフィリオはパリで学び、ヨーロッパ、アメリカを股にかけて社交界に出入りし、名門女性から映画女優まで関係を持ちました。マリリン・モンローやリタ・ヘイワース、ザザ・ガボールなどとも関係がありました。
また朝はパリ、夜はニューヨークといったようなジェット族でもありました。
〝種馬〟異名を持つポルフィリオの初夜のすさまじい攻撃から身を守るためバスルームに逃げ込んだこともありました。バーバラはのちにグロテスクとまで言っています。
40歳を超えてからバーバラの容姿は急速に衰えていきました。原因の拒食症でした。
バーバラは最初はふっくらとした少女だったのですが1933年に20歳で初めて結婚したとき、夫から太り過ぎていると言われたことがきっかけとされてえり、晩年には160センチで33キロになってしまいました。
痩せ過ぎて自力で歩くことができなくなったため移動はボディガードに頼んでいました。
痩せ衰えてもバーバラの性欲はなくならず、40代半ばにはジェームズ・ディーンと関係を持ち、50歳の時は20歳の愛人を持ち、60歳の時は24歳の闘牛士と恋に落ちたと言います。
晩年には一晩千ドルでカリフォルニアのビーチボーイを部屋に呼んだりしていました。
バーバラは宝石が好きでカルティエ、ヴァンクリーフ・アーペルなどの宝石を買い漁ました。
マリー・アントワネットの真珠のネックレスをカルティエから買い、ロシア大公妃のエメラルドのティアラ、ポルトガル王妃のティアラなど、数々の世界の名品を所有していました。
1979年5月11日ビバリーヒルズの高級ホテルの一室で亡くなっているのを発見された。66歳でした。
バーバラの愛用していたヴァンクリーフ・アーペルのティアラをつけた状態で発見されと言われています。
亡くなった時、バーバラの遺産はわすか3500ドルでした。
(バーバラのお墓)
(プアリトルリッチガールはファラ・フォーセットにより映画化されました)