ウージェニー・ド・モンティホはフランス第二帝政期にフランス皇后として君臨した人物です。




フランス第二帝政期は1852〜1570年間の治世でありわずが20年にも満たない短い期間でした。




しかし第二帝政期は〝第二のロココ〟と呼ばれるほど華やかな時代でした。




華麗なワルツが流れる毎晩の夜会ではいわゆる縦ロールに長い髪を巻いた女性たちがクリノリンドレスを身につけ登場しました。





このエレガントで最高に華やかなファッションを復活させ、ファッションリーダーとなったのが皇后ウージェニーですニコラブラブ


また皇帝ナポレオン3世によりパリ大改造計画のおかげで今我々が見に行ける花の都パリが完成しましたピンクハート







日本ではマリー・アントワネットが一番有名で、ウージェニーは日本ではあまり知名度がありませんが、ウージェニーこそがルイ・ヴィトンを有名にし、クリノリンドレスをヨーロッパ中に流行らせ、パリをヨーロッパ社交界の中心として不動のものとしました。



またウージェニーはフランス革命でギロチン台で処刑されたマリー・アントワネットに憧れており、マリー・アントワネットの遺品や肖像画を買いあさるマリー・アントワネットコレクターでもありました。




1826年5月5日、ウージェニーはスペインのグラナダでスペインの名門貴族モンティホ家のドン・シプリアーノとマヌエラの次女として誕生しましたニコ

(ウージェニーの父親、モンティホ伯爵。熱心なナポレオン信者でしたニコニコ

ウージェニーにはひとつ年上で気立てのよく美しい姉パカがいました。


(ウージェニーの姉、パカニコラブラブ

母であるモンティホ伯爵夫人マヌエラは美しいが野心的な女性でした。
娘たちになんとか条件の良い結婚をさせようと、教育のためパリへやってきましたニコ


(ウージェニーの母親、マヌエラと姉のパカ、ウージェニーニコニコラブラブ


ウージェニーと姉のパカは1837から1838年までサクレクール寺院の女子修道院で正規の教育を受けました。




母マヌエラはパリでサロンを開き、そこで32歳のフランス人作家プロスペル・メリメと親交を深めました。

(メリメ。カルメンの作者でウージェニーに教養を授けた。ウージェニーが皇后になると元老院議員となりますニコラブラブ

メリメは著名な作家であり、かの有名な『カルメン』の作者で、ウージェニーと姉パカにフランス語を教え、教養を授けましたニコキラキラ

1939年ウージェニーが13歳の時最愛の父が死んでしまいましたえーん

(ウージェニーの母親マヌエラ。)



しかし母マヌエラは愛人であるイギリス大使ジョージ・ヴィリアーズと結婚しようとするが、愛人ヴィリアーズはマヌエラを捨てて他の女性と結婚したため、当てつけのように母マヌエラは2人の娘の良縁探しにますます躍起になりましたショック

(母マヌエラの愛人、ジョージ・ヴィリアーズ。後の外務大臣ニコラブラブ



母マヌエラのお気に入りは姉のパカだったため、ウージェニーは母親との折り合いがとても悪かったぐすん

(姉のパカニコニコラブラブ姉妹なのでとても似ていますキラキラ

1842年17歳のウージェニーは初恋をする。

スペインきっての名門貴族、アルバ公爵ハイメと出会い、ウージェニーと姉パカは姉妹同時にハイメに恋してしまいますガーン


(ウージェニーと姉パカが恋したアルバ公爵ハイメ)


結局アルバ公爵はウージェニーにプロポーズしましたが、姉のパカをアルバ公爵夫人にしたい母マヌエラに強引に仲をさかれ、また姉パカを愛していたウージェニーはアルバ公爵との結婚を諦めました

(姉のパカ。後にスペイン一の名家アルバ公爵と結婚し、公爵夫人となる。)


ウージェニーはアルバ公爵にこんな手紙を残しています。


『私は愛と憎しみに満たされ気も狂わんばかりです。私は狂気のうねりの中で死ぬでしょう』



ウージェニーは最初、修道院に入って一生を終えることを考えた。しかし結局修道院入りは断念し、その代わりそれからの5年間、ウージェニーはスペインで失恋の傷を癒すため、派手な衣装で闘牛場に現れたり、水泳、フェンシング、タバコにまで手を出す始末だった。




一方でウージェニーの容貌は息をのむほど美しかったので慕う男性は後を絶たなかった。




ウージェニーは言い寄る男性たちから次々と求婚されたがそのすべてをはねつけたため、
〝鉄の処女〟と呼ばれた。





ウージェニーがナポレオン3世に出会ったのは23の時だった。





美しいウージェニーを一目みてナポレオン3世は狂おしい程の恋に落ちた。




熱心なナポレオン信者だったウージェニーは悪い気はしなかった。

ナポレオン3世はウージェニーより18歳も年上で、短足でスタイルもよくなく女性にモテる美男子とは程遠い上、とんでもない漁色家だったアセアセ


(ナポレオン3世)




13歳のある夜、自分の欲望を抑えきれなくなったナポレオンは自分の女中を部屋に引きずり込み強引に犯したのを皮切りに、手当たり次第女性に手を出すようになっていったアセアセアセアセ

(若き日のナポレオン3世)



最初ナポレオン3世は他の女性と同じようにウージェニーに近づいたが、貞操観念の強かったウージェニーはこれを拒否した。



自分を愛妾にしようとしたナポレオンに腹が立ったウージェニーはフランスを去ましたイラッ炎炎
イギリスへ向かい、ヴィクトリア女王から歓迎されましたほっこり

(イギリスのヴィクトリア女王。ウージェニーより7歳年上だったが仲はよかったニコイエローハーツ


『あのような素晴らしい方がどなたかしかるべき方と結婚していないとは信じられません。』

とイギリスの総理大臣マームズベリーは進言した。




母マヌエラはウージェニーの年齢を考え焦っていた。クラレンドン卿は、こう言って慰めた。 

『お待ちになったほうがいい。あの美貌と気立てのお嬢さまには特別な結婚しか考えられません。』



1852年9月、ウージェニーは母と再びパリへ戻った。




ウージェニーは26歳になっており、すっかり成熟した自信にあふれた美女になっていたがいまだ未婚のままだった。

チュイルリー宮殿の大舞踏会に招かれたウージェニーは青色のロープデコルテで現れた。男たちの視線はいっせいにウージェニーに注がれた。




ウージェニーはナポレオン3世に、


『あなたはわたしを守ると言いながら一度も約束を果たしてくださいませんでした。私は皇帝の寵姫だと言われています。
しかし私は寵姫になるつもりはありません。
明日、イタリアに発つつもりです。』



顔色を変えたナポレオン3世はその場でウージェニーに求婚しました。

言質をとったウージェニーの勝利でした。ウージェニーは言葉巧みに結婚の約束を取り付けたでしたぶー




しかし優柔不断なナポレオン3世の性格を知っていたウージェニーは念を入れて母マヌエラ宛の手紙も書かせた。

勝利を収めたウージェニーは確かに表面的には喜びに溢れていた。フランスの皇后になるのだから当たり前かもしれない。




しかし内心は複雑な気持ちでいっぱいだった。そこには少なくともウージェニーが愛したアルバ公爵に寄せたような激しい恋の情熱はなかったからだった。




それはウージェニー以上の野心家で皇后の座を望んでいた母マヌエラでさえも、不安を覚え始め、ロシュランベール侯爵に不安な気持ちを訴えている。

『娘はフランスの皇后となるでしょう。
しかし心ならずも私は王妃という立場は幸福ではないと思うのです。

わが意に反してマリー・アントワネット様がたどった恐ろしい運命に取り憑かれています。娘も同じ運命をたどるのではないかととても心配です』






1853年1月29日、チュイルリー宮殿でナポレオン3世とウージェニーは結婚しました。



ナポレオン3世は45歳。ウージェニーは26歳だったニコラブラブ





ナポレオン3世は豪勢な宮廷を作ろうと苦心していた。ナポレオン3世が作り上げた宮廷にウージェニーは輝きと魅力を付け加えた。





その結果、フランスはヨーロッパ随一のきらびやかな宮廷が生まれ、ウージェニーはその頂点に君臨したのだった。







第二帝政期はとても華やかな時代で夜会は豪華絢爛、人々は明け方の4時まで踊り明かした。




またウージェニーが主催する舞踏会に『皇后の月曜日』というものがあった。




気取らない少人数(といっても400〜500人ほど)のパーティで、美しく洗練された女性たちを友人とするのを好んでいたウージェニーはパリの女性の中でもこれぞ、という美女を選んで招待していました。




しかしウージェニーとナポレオン3世の性生活は悲惨なものでした。
結婚してすぐウージェニーは友人に打ち明けている。


『肉体的な愛とはなんと穢らわしいのでしょう!…それにしても男の人たちの頭の中にはどうしてそのことしかないのでしょう?』

当時の人々は2人の関係をこう揶揄しました。



〝ナポレオン3世は選ばれて皇帝になった。ウージェニーは貫かれて皇后になった〟





2人の甘い新婚生活は3ヶ月と続かなかった。

それには理由があった。ナポレオン3世は自分勝手な性行為をする男だった。相手の女性に喜びを与えようとはせず、自分だけが喜べばよい、自分よければ全て良し、という自己中心的なものだったショック




ナポレオン3世は女ならば誰でもよかったのでらあらゆる機会を狙って女を追いかけ回した。
それは宮廷内にとどまらず、バック街に小さな私邸を借りそこに女たちを囲った。



ナポレオン3世は日替わりメニューのように女たちを賞味した。女優、若い娘、侍女、社交界の女性、高級娼婦など…



1856年3月16日ウージェニーは世継ぎになる皇太子を出産しましたニコニコラブラブ
ウージェニーは30歳になっており、皇太子である息子を〝ルル〟と呼び、愛していましたドキドキ




しかしウージェニーとナポレオン3世との間は冷え切っていき、寝室を共にすることもなくなっていったので〝ルル〟がウージェニーにとって唯一の子供であった





ナポレオン3世はイタリアから送られてきたスパイ、カスティリョーネ伯爵夫人を愛人にしました。


(ナポレオン3世の愛人となったカスティリョーネ伯爵夫人)


その後外務大臣夫人ヴァレフスカを2年間愛妾にし、その後イギリス人のミス・スミス、バルッチ夫人、カドール公爵夫人、歌姫ハマカーズ、ウージェニーの女官ラ・ベドワイエール夫人、アメリカ娘リリー・ムールトンなど…

(カスティリョーネ伯爵夫人との間に生まれた息子)




これにはさすがのウージェニーも呆れ果てたという。

そんな時スペインにいる姉、パカが原因不明の奇病(今日の研究では白血病と言われている)に罹った。姉を愛していたウージェニーはパリで最新治療を受けさせようとしたが1860年最愛の姉パカは死んだ。

そんな悲しみを抱えながらもウージェニーは民主な万歳には微笑を持って答えなければいけなかったし、レセプションにも参加して陽気に振舞わなければならない。




しかしこれは皇后となったウージェニーの『権力の代償』であった。



ナポレオン3世の好色の度合いは年と共に強まり、町の娼婦にすら興味を持つようになっていった。

悪名高い高級娼婦、ラ・パイヴァに続いて女優のマルグリッド・ベランジェ

マルグリッド・ベランジェは才能のない25歳の舞台女優だったが、今は『陽気なあばずれ』とあだ名される評判の高級娼婦だった。

(ナポレオン3世の愛人、女優マルグリッド・ベランジェニコ

このマルグリッドがナポレオン3世は気に入り、高級住宅街パシーに住まわせ、やがてマルグリッドは妊娠して皇帝の子供まで出産してしまったガーン


(マルグリッド・ベランジェとの間に生まれた息子)

ナポレオン3世の肉体は衰弱しきり知能にも影響を及ぼし始めていた。さらに歩行さえ不可能な状態に陥っていた。


1867年パリ万博が開催され無事に終わりました。

このパリ万博でルイ・ヴィトンは銅メダルを獲得し、世界的な評価を得ていくことになります。

パリ万博はフランスの偉大さと繁栄を全世界に誇示しえた世紀の催しではあったけれども同時に第二帝政期の落日の残照でもあった。





ウージェニーにとっても同じで皇后としての栄光と美貌を輝かせた最後の一時期だった。

それでもウージェニーは人々を惹きつける魅力を失わなかった。

オーガスティン・フィロンがウージェニーに出会った時、ウージェニーは40歳を過ぎ容色も衰え始めていた。




別荘のテラスに立っていたウージェニーは帽子もかぶらず、パラソルもささず強い日差しの中に立っていた。その強烈な個性的な姿はまさにスペイン女性そのものだった。




またウージェニーはしみやしわを隠そうとはしなかった。ウージェニーは飾り気がなく、いつも自然とともにある女性だった。





1870年7月19日運命の普仏戦争が始まった。ナポレオン3世は歩くこともできないほど衰弱していたが戦地へ向かい、そして捕虜になった。

ナポレオン3世はプロイセンに降伏した。ここにフランス第二帝政は幕を閉じたのだった。
ウージェニーは一人息子と共にイギリスへ亡命した。
半年後ナポレオン3世も亡命してきたが2年後に64歳で死去した。最期まで復位を諦めてはいなかった。

(ナポレオン3世のデズマスク)

1874年ウージェニーの一人息子で元皇太子ルルーは18歳に達した。いずれナポレオン4世として即位することを願っていた。

(ウージェニーの一人息子で皇太子。)

しかし1879年南アフリカでズールー戦争が勃発。ウージェニーの反対を押し切って戦争に参加し、前線に出た皇太子はズールー族の猛反撃に落馬して逃げ遅れ、無残にも虐殺された。




まだ23歳だった。これによりナポレオン3世の直系は絶えることになった。

愛息子の死後、ウージェニーは政治的な野心を完全に放棄した。



1901年にはウージェニーの初恋の相手で義兄アルバ公爵も死去した。ウージェニーを保護してくれたヴィクトリア女王も82歳で死去した。

90歳になったウージェニーは完全にひとりぼっちになった。さらに白内障になり失明してしまった。



1920年7月11日朝8時にウージェニーはしずかに息をひきとった。94歳だった。





(ウージェニーの王冠)


(ウジェニーのイヤリング)