ディアーヌ・ド・ポワティエは16世紀、フランス・ルネサンスが花開いたフランス宮廷で最も美しい女性と言われ、19歳年下のフランス国王アンリ2世を25年にわたり虜にした女性として有名です。



ディアーヌ・ド・ポワティエは1499年9月3日、フランス南東部のサン・ヴァリエ城でヴァレンティノ伯ジャン・ド・ポワチエの娘として誕生しました。


伯爵家は祖先を12世紀までさかのぼることができる古い家柄の貴族だったので、ディアーヌはフランスで最も由緒ある名門貴族の姫君として生を受けました。




ディアーヌには男一人、女二人の兄妹がいましたが父親が一番愛したのはディアーヌでしたニコニコ

母が早くに亡くなったためディアーヌは6歳で教育のため、フランス王女でありブルボン公爵夫人であるアンヌ・ド・ボージューのムーランの宮廷に送られました。




ムーランの宮廷では多くの名家の令嬢が預けられており、優れた教育者であったアンヌ公妃は『乙女たちの母』と呼ばれていました。




(ディアーヌを教育したブルボン公爵夫人アンヌニコドキドキ


ディアーヌは6歳でラテン語を9歳でギリシャ語を読むことができましたラブビックリマーク



アンヌ公妃はディアーヌの才能を見抜き、(他の生徒より格段に上であり、自分の娘、スザンヌですら敵わない)すぐさま新たなカリキュラムを作ったほど優秀でしたニコ




アンヌ公妃の宮廷でディアーヌは薬学、宗教、哲学を学び、上品で優雅な立ち居振る舞い、趣味のよさ、品行の正しさを身につけましたキラキラ

ディアーヌは知らされなかったが10歳の時、ノルマンディー大総督ルイ・ド・プレゼとの婚約が決まっていた。

(ディアーヌの夫、ルイ・ド・プレゼニコ

ブルボン家の血を引くルイ・ド・プレゼよりフランスで高位にあるのは王族だけという名門貴族で大変な権力と富を持っていた。

ディアーヌが15歳の時、アンヌ公妃よりこの婚約について知らされた。



ディアーヌは石のように固くなった。ルイ・ド・プレゼはディアーヌより41歳も年上だったからだ。

ディアーヌはあえぎながら答えた。

でも、奥さま、ルイ・ド・プレゼ殿は私の父と同じくらいのお年で、身体が不自由であられます』


しかし徳高きアンヌ公妃に諭され、ディアーヌは結婚を承諾しました。 




そして1515年3月29日、フランス国王夫妻の隣席のもとディアーヌはルイ・ド・プレゼと結婚しました。


ディアーヌは15歳。ルイ・ド・プレゼは56歳でした真顔





ディアーヌの不安はよそにこの結婚は幸せなものとなりましたラブドキドキドキドキ






1518年ディアーヌは19歳で第1子フランソワーズを1521年にはルイーズを出産しました。







41歳年上の夫は背中は曲がっていましたが、素晴らしく博学で寛大で善良な人でした。

夫は若い妻を子供扱いすることなく、巧みな話術と山のような蔵書の中から選んだ本をすすめたおかげでディアーヌは才気あふれる貴婦人へと成長していきましたキラキラキラキラ




1531年に夫が72歳で死去するとディアーヌはすべての役職を辞し、ふたりの娘とともにアネ城に引きこもってしまいましたショックアセアセ

(ディアーヌが住んだアネの城ニコ


そんな時フランソワ国王から誘いが来ました。


(フランス国王フランソワ。アンリ2世の父親ニコ



再び宮廷に出仕し、12歳の息子アンリの教育をして欲しいと。

夫の死から2年たった1533年、ディアーヌはフォンテーヌブロー城の宮廷に出仕しましたニコ






ディアーヌは32歳だったがディアーヌの美しさは全く衰えていませんでした。




ディアーヌは未亡人なので黒いドレスを着ていたが、それにディアーヌは白も加えた。この白と黒のコントラストはディアーヌの白い肌と金髪の美しさを強調していた。




さらに引き締まったウェストに宝石をはめ込んだ銀の鎖を巻き、頭飾りは真珠をちりばめたこのスタイルは貴婦人たちの間で大流行しましたラブ 





ディアーヌが教育を任されたアンリ王子は7歳から4年間、神聖ローマ帝国皇帝カール5世の人質にされたつらい経験から口数が少なく、人嫌いで暗い少年になってしまっていた。




アンリ王子はディアーヌの言うことだけは何故かきいた。


ディアーヌの言うことだけをきいた理由のひとつにアンリ王子は囚われていた4年の間、「Amadis de Gaula」という本を読んでつらい人質生活に耐えていた。




この本に出てくる貴婦人と騎士をディアーヌと自分に重ね、騎士道精神あふれる青年になろうとしたのかもしれない。



騎士道精神とは貴婦人への無償の献身であり、騎士は貴婦人を崇拝し、奉仕を行うことである。



それは繊細な精神とロマンチストだったアンリ王子に強く影響しました。




アンリ王子にとってディアーヌは唯一の理想の貴婦人だったのだニコ


18歳になったアンリは背が高く自信に満ち溢れたたくましい青年へと成長していましたラブ




1538年、それまでは亡き夫に忠実だったディアーヌがアンリ王子の腕の中に陥落する日がやってきた。アンリ王子は18歳。ディアーヌはなんと37歳だった。




1547年にフランス国王フランソワ1世が死去すると28歳のアンリ王子が新たなフランス国王アンリ2世となった。


(フランス国王アンリ2世。生涯ディアーヌだけを愛した。)

アンリはカトリーヌ・ド・メディシスと結婚していたがディアーヌへの愛を隠そうとしなかった。  




(アンリ2世の妃でフランス王妃、カトリーヌ・ド・メディシス)

フランス国王になった翌年に、アンリ2世はディアーヌにヴァランティノワ公爵夫人の称号を与え、税金の一部がディアーヌのもとに入るようになったおかげでディアーヌは大金持ちになったキラキラ




さらにフランス王家の持ち物でロワール河のほとりで最もロマンチックな城と言われたシュノンソー城まで47歳の愛人ディアーヌにあげてしまったゲッソリ



さらに1548年にアンリ2世はディアーヌの顔を刻んだ金貨すら発行したキョロキョロ




かつてフランス国王が愛人にこれほどの敬意を表したことはなかったため皆驚いたガーンガーン

『彼女なしには生きられない、彼女がいないとすべてが色褪せる』とアンリが書いたのも不思議ではない。

さらにアンリはディアーヌに指輪を身につけてくれ、と手紙で懇願した。


(14世紀の指輪💍)


『わたしの愛のために。それを見るたびに、あなた以外には誰も愛さず、将来も愛さない男のことを思い出して欲しい。。』




しかし誰もがディアーヌを好意的にみているわけではなかったショックアセアセ


王妃カトリーヌは夫アンリを愛していたため、夫の愛人ディアーヌに激しい憎悪を抱いていたムキー


国王の愛を一身に受けているディアーヌは国事にも口を出すようになった。ディアーヌは女王のようにフランスに君臨した。 




ディアーヌは今でいうアンチエイジングに熱心だったため、いつまでも若さを保っていましたニコニコ




美しさを失えばいかばかりの価値があろうか。若さを決して失ってはならない。朝は3時に起き、特製のスープを飲み、毎日2時間馬に乗り、水泳をして体を鍛えてスタイルを保ったがこれらは16世紀としては異例のことだったニコ  



(50歳の時のディアーヌ。フォンテーヌブロー派)


ディアーヌ59歳、運命の瞬間が訪れた。国王アンリ2世は騎馬試合の事故で瀕死の状態になったのだ。



目に槍が突き刺さりそれは脳まで達していた。

瀕死のアンリ2世は何度も繰り返しディアーヌの名前を呼んだ。


1559年7月10日アンリ2世は亡くなった。



ディアーヌはアンリから贈られた宝石類と公文書をいれた国王の引き出しの合鍵を自らすすんで王妃カトリーヌに返した。



王妃カトリーヌの要望に従ったのではない、あくまで自分の意志なのだということを強調しながら。
それが国王の愛を一身に受けてきた誇り高い女の最後の抵抗だった。



1566年4月25日ディアーヌは天に召された。67歳だった。老いていても昔の名残をとどめていた。




ディアーヌは思い出していた。大理石の女神と言われていた時のことを。そしてアンリの言葉がディアーヌの心に残っている。


『わたしはひとりの神しか知らないし、ひとつの愛しか知らない。』





アンリ2世の治世は短かったがアンリ2世の宮廷の華やかさ、優雅さ、洗練は世界のどこにもなかった。しかしそれを後押ししていたのはディアーヌだったのだ。



フォンテーヌブロー派を発展させたのもディアーヌであるし、フランス・ルネサンスを完成させたのもディアーヌだったニコ
さらにアンリ2世の宮廷の輝かしさは文学にも名を残した。ラファイエット夫人のクレーヴの奥方の舞台もアンリ2世の治世である。