王室の一員たる者、幸福になろうとなど望んではならぬ。ールーマニア国王カロル1世
フランス国王ルイ14世が造った豪奢なヴェルサイユ宮殿。そこは愛や肉欲、政治における激しい戦場であるだけでなく、貴族を拘束する黄金の監獄でもありました。
ラ・プリンセス・パラティーヌことエリザベート・シャルロット・ド・バヴィエールはルイ14世の弟、フィリップ1世の2番目の妻になった女性です
プファルツ選帝侯カール1世とその最初の妃シャルロッテの長女としてハイデルベルク城で誕生しました
エリザベートの母は美貌の持ち主でしたが金遣いが荒く、我儘な性格持ち主で、子供を3人出産すると、これ以上出産すれば自慢のスタイルと美貌を損なうとして夫との同衾を拒否していました
17世紀の幼児死亡率は大変高く、幼児の死亡率を見越して多目に出産しておくのが普通でした。
なので出産拒否は異例のことでした
エリザベートは母親から引き離され叔母ゾフィーに育てられることになりました。
1671年エリザベートに縁談が来ました
相手はフランス国王ルイ14世の弟、フィリップ1世です。エリザベートの新居はもちろんあの豪華なヴェルサイユ宮殿
しかしこの縁談にエリザベートは少しも喜びませんでした
私がなぜヨーロッパの貴族の生活ばかり書いているかというと、子供の頃母親に呼んでもらったプリンセスがでてくる絵本の影響です
贅の限りを尽くした高価なドレス、きらかなら輝くアクセサリーでいっぱいの宝石箱、盛大な晩餐会に舞踏会に結婚相手は素敵な王子様、そしてかわいい子供に恵まれ。。
しかし現実はかならずしもそうだとは限りませんでした
エリザベートの結婚相手、フィリップは同性愛者として有名だったからです
政略結婚ですので自分を愛してもいない男、時に自分を毛嫌いしている男の子を命がけで産まなければいけないのです。
ナポレオンは2度目の結婚の際、
『余は子宮と結婚する所存である』
と言いました。
王侯貴族の結婚は個人としてではなく、身体器官として扱われ、感情などは無視されるのだ。
さらに夫になるフィリップにはこんな黒い噂がありました。
フィリップの最初の妃はイギリスのプリンセスでアンリエット・ダングルテールでした
アンリエットは〝女の中の女〟と言われるほど魅力的でとても美しいプリンセスだったらしいのですが、もちろん夫フィリップは関心を示しません
美醜に厳しいフランス宮廷の女官たちも
〝近ごろこれだけ美しいお姫さまにお目にかかったことがない〟と口を揃えて絶賛するほどの絶世の美女でした。
アンリエットはさみしさのあまり夫フィリップの兄、つまりルイ14世と不倫関係になってしまいました。
妻には関心はないが、妻を寝取られたことに、そしてその相手が兄であったことに激しい怒りを感じていました
なのでアンリエットが1670年に26歳の若さで突然死すると夫フィリップの愛人シュヴァリエ・ド・ロレーヌによる毒殺疑惑が持ち上がったのです。
そんな相手とは結婚したくないと言っていたエリザベートですがこの縁談を断れるはずもありません。
1671年11月21日エリザベートは19歳で故郷のハイデルベルクを発ち、フィリップ1世と結婚しました。
ヴェルサイユへて向かうエリザベートは道中さめざめと泣き続けていた、と言われています。
ヴェルサイユに到着してエリザベートは仰天しました。
夫であるフィリップは同性愛者というだけでなく、女装趣味まであったからです
フィリップはダイアモンドのイヤリングをつけ、フリルずくしの服にブレスレット、髪はカールさせ、そしてハイヒールまで履いていました。
さらに夫フィリップはエリザベートのドレスや宝石を無断で男の恋人にやるなどして妻を軽んじました
それでも王侯貴族としての運命を受け入れていたふたり望まない性行為の末に3人の子供をもうけました。
さらにエリザベートは豪華なヴェルサイユ宮殿での暮らしも気に入りませんでした
今私たちが観光にいけるヴェルサイユ宮殿とエリザベートが暮らしていたヴェルサイユ宮殿は違ったのです。
トイレが少ないので人々は道端で用をたした。そのせたいでひどい悪臭がしていました。
ヴェルサイユの衛生観念は最悪で貴婦人たちは身体中ノミが這いずり回っていたにもかかわらず高価なサテンと厳選されたレースがたっぷりついたドレスを着ていた。
また召使いはスパイの役割を持っていました。宮廷は基本的には戦場であり、まばゆい美しさと魅力で武装した貴婦人たちはそこで戦っていたのです。
この時代窓に鎧戸をつける、ということを誰も思いつかなかったので、窓からはコウモリや虫が入ってきた。
さらにヴェルサイユで王族が受ける治療は現代の価値観からみると酷いものでした。
治療といえば瀉血や無理矢理嘔吐させ、下痢をさせる、という考えられないもの。
ルイ14世の母、マリー・ドートリッシュが乳がんになった時など鎮痛剤も感染症予防もなしに、医者たちはアンヌの乳房を一切れずつ切り刻み、言語を絶する苦痛の果てにアンヌは死にました
エリザベートはヴェルサイユの医者を拒否し、宮廷で王族が死ぬと〝殺された〟と友人にもらしている。
エリザベートは結婚した1671年から死去する1772年の51年間にわたって多くの書簡を残しました。そのおかげで当時のヴェルサイユでの暮らしぶりを知ることができました。
さらに一つ耐え難いことがエリザベートにはありました。
息子の教育にも結婚にもまったく口を出すことができなかったことでした。
息子の教育係には夫フィリップの愛人デフィア侯爵が選ばれてしまった
臣民は王室の女性の贅沢な生活を羨んだが実のところ多くのプリンセスは自由に使えるお金がほとんどない場合もままありました
1683年にルイ14世の王妃マリー・テレーズが死去すると自動的にエリザベートがフランスで最も身分の高い女性となりました。
しかし夫フィリップは妻であるエリザベートがお金を使えないようにしていました
いまなら金銭的DVと言われるかも知れませんが、当時は合法で、夫フィリップはエリザベートの居室にある銀食器や銀製器をエリザベートが大声で抗議するのを無視し全部持ち去っていってしまいます
1701年夫フィリップが死んだ。
エリザベートは30年に及ぶ苦行のような結婚生活から開放された。
さらに1715年にルイ14世が死ぬとエリザベートの長男がフランスの摂政となりました。
エリザベートは1722年12月8日70歳で死去しました。
多くの王妃たちが華麗で贅沢な暮らしを享受していたにもかかわらず、ほとんどはひどく不幸だった。ただ彼女たちの住む宮殿の豪華絢爛ぶりが実際の彼女たちを偉大に見せているだけなのだ。
エリザベートは1701年こんな言葉を残しています。
『観客席からはすべてが華麗で美しく見えます。でも舞台裏に回ってみるとほとんとが無様でありふれたものばかりです』
と。
1705年にはエリザベートはさらに辛辣に自分の生活について語った。
『ヴェルサイユにあるのは楽しいことばかりだと言われていますが、本当に楽しんでいる人を見たことがありません。明らかに不快なことの方がここには多いのです』
エリザベートはその生涯で誰かを愛したのでしょうか?
エリザベートはルイ14世時代のヴェルサイユの暮らしを残した女性として名を残しました。
しかし相思相愛の恋は、必ずしも全ての人恵まれはしない。歴史に華やかに名を残した女性であっても、一生ときめきを知らずに死んでいったものもいれば激しく恋い焦がれた相手と結ばれなかった人もいる。
時代は下り、ブルボン家は滅び、フランスは王政から帝政になった。
皇帝はナポレオンその妃ジョセフィーヌは世継ぎを産めなかったのを理由に離婚させられていまいます。
そして44歳のジョセフィーヌはナポレオンから多額の年金(現在の価値だと年に30億円)をもらい、マルメゾン城に隠居しました。
一見地位は安泰に見えた。
しかしジョセフィーヌはマルメゾン城を訪れる人々に好んで宝石箱の中身をみせました。
『このような宝石などほとんど意味はありません。えぇ、若い頃はこういったものを大いに喜んだものでした。けれど時とともに飽き飽きしてしまいました。
わたくしはフランス王妃だったマリー・アントワネットのイヤリングも持っていますとも。しかし今では社会的な体裁に迫られて身につけるだけです。』
あまり関係ありませんが、私はお金持ちでもないのに高価な品物や宝石を見るのが好きという欠点がありますあとハリウッドセレブのゴシップ紙を読んで海外セレブたちの身につけるバーキンやらに憧れたり、インスタみたり。。
ため息をつきながら元皇后ジョセフィーヌは語った。
『光り輝くものを持っているという理由だけで人を羨んではいけません。そこに幸せはないのですから。』