ー人生は筋書きのないドラマである。




(チンチョン女伯爵マリア・テレサ    フランシスコ・デ・ゴヤ1800年、ゴヤの描いたマリア・テレサの顔は自分の人生を諦めという形で受け入れたかのような寂しげでどこか冷めた投げやりな表情。まるですべてに無頓着な様子がします。)





 
王族の血を引くチンチョン伯爵家の令嬢として生まれ、

〝天才画家ゴヤが描いた最も美しい婦人像〟のモデルになったマリア・テレサ。 




しかし結婚と引き換えにブルボン本来の栄誉を取り戻すが、嫁いだ相手は王妃の愛人だった。。





マリア・テレサ・デ・ボルボーン・イ・バリャブリガは1779年3月6日スペイン王子ルイス・アントニオとアラゴン貴族マリア・テレサ・デ・バリャブリガ・イ・ロハスの次女として、ベラダで生まれましたニコニコ




父ルイス・アントニオはスペイン国王の王子として生まれ、わずか8歳で枢機卿になった世界最年少としてギネスブックにも記載されているほど恵まれた王族でしたお願いラブラブラブラブ


(マリア・ルイサの父親ルイス。スペインの王子ニコ

さらに祖父フェリペ5世はスペイン・ブルボン朝の最初の国王でもありましたニヤリ

マリア・テレサは本来ならばブルボン家の血をひく王族のはずでした。


しかし母親の身分が低いため、貴賤結婚とされマリア・テレサは庶子扱いを受けることになってしまいますえーんアセアセ  


(祖父はルイ15世の血をひくスペイン国王フェリペ5世でしたニコニコ

さらに父親ルイスがブルボン家の血をひく自分こそスペイン国王にふさわしい、とスペイン王位継承に野心を見せたため、マドリード宮廷から遠ざけられ、流刑同然の状態に置かれてしまいますガーン

父ルイスが1785年に死ぬと5歳のマリア・テレサはただちにサン・クレメンテ修道院へ入れられ、厳しい教育下に置かれました。 



マリア・テレサが修道院で成長し、17歳の適齢期の女性となった頃、マドリードの宮廷を仕切っていたのはスペイン王妃マリア・ルイサでした。 
 
(スペイン王妃マリア・ルイサ)


王妃マリア・ルイサは夫であるスペイン国王カルロス4世を尻にひき、自身より8歳も年下で21歳の美男子だったマヌエル・ゴドイを愛人にしていました。

(一番上のマリア・テレサの肖像画と同じ時期にかかれた王妃マリア・ルイサ  1800年)

王妃マリア・ルイサは愛人ゴドイがなんの成果もあげていないにもかかわらず、1789年に大佐に、1790年にはスペイン指揮官と次々に昇進させました。


(ゴヤが描いたカルロス4世夫妻ニコこれは聴覚を失ったゴヤが研ぎ澄まされた4感で感じた、虚飾と権力に着飾られた怠惰で堕落したバラバラの家族という現実と未来を暗示した名作であるといわれています。)

さらにゴドイの機嫌をとろうと1792年25歳の若さでスペイン宰相にまで昇進させてやりました滝汗



しかしゴドイは王妃マリア・ルイサの他になんと別の愛人がいたのですゲロー

ペピータ・トゥドゥーという魅力的な女性でした

(ゴドイが愛したペピータ・トゥドゥー口笛ラブラブ

1797年にはゴドイはスペイン国王に図々しくも自分の愛人ペピータにカスティリョフィエル伯爵夫人とロカフエルト子爵夫人の称号を与えさせましたゲロー




ゴドイはペピータを大変愛し、ペピータの母親や姉妹を引き取って養ってあげていました。





これに激怒したのが王妃マリア・ルイサですムキー炎炎
王妃はペピータをゴドイから引き離すためゴドイに素晴らしい結婚相手を見つけてあげることを思いつきました滝汗



白羽の矢がたったのが17歳のマリア・テレサです。




修道院にいるマリア・テレサのもとにスペイン国王カルロス4世から親書がある日届きました。

『首席大臣マヌエル・ゴドイと結婚するように』

マリア・テレサは修道院に入っているのだから縁談を断ることもできましたニコ




しかし親書には続きがありました。


『同意すればマドリードの宮廷では王妃マリア・ルイサに次ぐ地位が与えられる。妹には勲章が与えられ、兄はトレド大司教、スペイン首座大司教となるだろう。没収された財産は返却されそして当然のことながらブルボン姓は回復させられる』

という破格の待遇でした。


マリア・テレサは修道院にいたためゴドイにあったことはありませんでしたが、結婚相手マヌエル・ゴドイは救世主のように思えました。




さらに美男子でマドリードの宮廷の女性たちなから憧れの的でもある、と聞かされました。  




マリア・テレサは結婚に同意しましたニコニコキラキラ

しかし甘い話には罠があるものです。。もやもやショボーン

1797年10月2日にエスコリアルでマリア・ルイサとマヌエル・ゴドイは結婚しました。



修道院育ちで世間知らずのマリア・テレサにとって現実は厳しかったアセアセ





夫マヌエル・ゴドイは王妃マリア・ルイサの愛人だった。



マドリードの宮廷中の人々が2人の関係に勘付いていた。とんでもなく鈍感でぼんやりした王カルロス4世だけは気がついていなかったもぐもぐ


(スペイン国王カルロス4世、ゴヤ画。妻マリア・ルイサが愛人ゴドイの子を産んでもその関係に気がついていなかったとされる。)




宮廷で目を伏せて歩くマリア・テレサの生活が始まりました。




結婚生活は屈辱的なものであった。ゴドイは地位とブルボン家の名、王妃マリア・ルイサとの愛人関係のカムフラージュのためにマリア・テレサを娶ったのであり、幼い妻には無関心でしたショボーン




ゴドイは王妃との関係と並行して魅力的なペピータ・トゥドーを熱愛ガーンし、正妻マリア・テレサと愛人ペピータを同じ屋敷に住まわせましたゲロー

(愛人ペピータショック) 


ペピータ・トゥドーはスペイン最大の画家ゴヤの『裸のマハ』『着衣のマハ』のモデルともされている女性ですお願い




下矢印裸のマハ、西洋美術で、初めて実在の女性の陰毛を描いた作品といわれてます。そのためゴヤは裁判所に呼ばれるほど大問題になりました滝汗



下矢印着衣のマハは、〝裸のマハ〟のカモフラージュのために制作されたとされています。
裸のマハと同じくマドリードのプラド美術館に飾られていますニコハート





食卓はゴドイを中心に妻と愛人が集まる、という地獄のような食卓だったゲロー

三角関係ならぬ、悪夢の四角関係が続きましたチーン




1800年10月7日、マリア・テレサは一人娘カルロッタ・ルイサを産みました。


(マリア・テレサの一人娘、カルロッタニコハート

洗礼式ではカルロス4世が代父を務め、式をトレド大司教が司ったほどであったが、母になったマリア・テレサは我が子を抱こうともしませんでしたアセアセ
それほど夫を心の底から軽蔑し疎んじていたのですショボーン

さらに愛人ペピータが1805年、1807年と男の子を出産イラッ炎炎




1808年アランフェスの暴動で夫ゴドイは収監されます。さらにカルロス4世は退位させられることにゲロー

フランス軍がアランフェスを占領したため、夫ゴドイ、その愛人ペピータ、マリア・テレサ自身が産んだカルロッタ、愛人ペピータが産んだ息子たち、カルロス4世、その王妃マリア・ルイサ、みんなまとめて逃亡しで行きました滝汗






もちろんマリア・テレサはついて行きませんでした真顔




王妃マリア・ルイサは自分たちの関係を、有名なあのセリフ、『私たちは地上の三位一体なのです。』と言い放った。
しかし庶民は、淫売と淫売屋の亭主とヒモ」の間違いでは?と思っていたゲロー






マリア・テレサはこのような出来事を冷めた目で見ていた。
チンチョン伯爵領を継いでいたため、チンチョン女伯爵と呼ばれるようになっていた。



1823年、自由主義的な立場であったマリア・テレサは、同年の兄ルイス・マリアの死去で後ろ盾を失いため、パリへ亡命しました。


亡命先では実の妹マリア・ルイサ、その夫でサン・フェルナンド公と落ち合いました。

亡命中のマリア・テレサは貧窮し、手持ちの宝石を売り払い、生活していました。


1828年10月24日マリア・テレサはがんのため49歳で死去しました。 



妻の死から間もなくして、ゴドイは長年の愛人ペピータと正式に結婚しましたゲロー



(ペピータ・トゥドー口笛



歴史の中でカルロス4世も王妃マリア・ルイサも失脚していった。



マリア・テレサは〝ゴヤの描いた最も美しい婦人像〟と言われる絵の中で、決して幸せとはいえない生活を送ったマリア・テレサの眼差しは美しくも儚い憐憫の情を湛え続けているのかもしれない。