〝自らの治世を父親殺しで始め、それを子殺しで終わる〟

ロシア皇帝アレクサンドル1世の知名度は日本では女帝エカテリーナやピョートル大帝の陰に隠れてしまってあまり高くありませんキョロキョロ

歴代皇帝中、最も複雑怪奇な性格の持ち主とされ、矛盾に満ちていたといわれるアレクサンドル1世。







しかしロシア史では1812年のナポレオンのロシアへの侵入を苦労の末に撃退したことでこの皇帝の名は不滅のものになりましたニコニコキラキラキラキラ


そしてもう一つ、歴史家の間でささやかれる謎に満ちた伝説を残したことでも知られています。







その伝説とはアレクサンドル1世は公式には1825年に47歳で死去しますが、本当は死んでおらず、別人になりすまして1864年にシベリアで片田舎生活を楽しんだ後、死去した、というものです。






一体なぜこのような伝説が生まれたのでしょうか?キョロキョロ
そこにはアレクサンドル1世の波瀾と苦痛に満ちた皇帝としての生活がありました。




アレクサンドル1世は1777年12月23日、ロシア皇太子パーヴェル1世の第一子として誕生しましたニコニコラブラブ

祖母はかの有名な女帝エカテリーナですニコ




しかし当時女帝エカテリーナと息子パーヴェル1世の仲は最悪でしたショボーンもやもやもやもや

その仲の悪さは息子を本気で嫌っていため、祖母エカテリーナは実父のパーヴェルの帝位継承権を剥奪し、アレクサンドルをロシア帝位につけることを考えているほどでしたアセアセ


アレクサンドルは祖母エカテリーナに引き取られ溺愛されて育てられました。




祖母と実父が互いに暗殺計画を立てるような環境が子供の養育にいいはずはありません。。ショックアセアセ




このような環境で育ったためアレクサンドルは狡猾かつ偽善的な性格になってしまったと言われていますショック

一方でアレクサンドルは美男子で愛嬌があり、社交性に富む、という二面的な性格を形成してしまいます。



アレクサンドルの二面的な性格を見抜いていたナポレオンは、
『知性、優雅さ、教育を兼ね備えている。彼は魅力的だが彼を信頼することはできない。彼は真心がない。抜け目なく、偽善的で狡猾である。』
と評しました。





女帝エカテリーナが息子パーヴェルを逮捕して流刑もしくは暗殺しようとした1776年女帝エカテリーナが突然の脳卒中で死去。





実父のパーヴェルがロシア皇帝の座につきますが、宮廷の人々からは嫌われていましたぐすん


そのため1801年3月近衛将校によりクーデターが起こされ、父パーヴェル1世はミハイロフスキー城で暗殺され非業の死を遂げました。

(パーヴェル1世の暗殺)


驚くべきことにこの暗殺計画をアレクサンドル1世は知っていた、とされています。キョロキョロ


アレクサンドルには〝父親殺し〟の烙印が押されることになりました。

しかしアレクサンドルは父の死を目の当たりにし、かなりショックをうけ、罪悪感に苛まれたとも言われていますショック




そしてその年の3月23日アレクサンドルはロシア皇帝に即位しました。




アレクサンドルには祖母エカテリーナが決めた結婚相手がいましたニコキラキラ

バーテン辺境伯の姫のエリザヴェータ・アレクセーエヴナという美少女でした。




アレクサンドル15歳、エリザヴェータ14歳の時結婚ニコハート






若くして結婚したためエリザヴェータには宮廷での役割がなく、外国人のエリザヴェータに宮廷の人々は冷たかったアセアセ
 






さらにロシア宮廷は堕落しきっており、温かな家庭で育ったエリザヴェータには適応できませんでした滝汗




エリザヴェータは結婚後もバーデンにいる母や兄弟たちと文通を続けていましたニコニコラブラブ
特に妹のフリーデリケとは仲が良かったようでしニコキラキラ  



そのためエリザヴェータは強いホームシックにかかりましたえーんアセアセ







成長するにつれ、エリザヴェータは花が開花していくようにエリザヴェータは美しくなっていきました
ラブドキドキドキドキ








その美しさが宮廷の注目を集め、女帝エカテリーナの若い愛人プラトン・ズーホフさえ彼女を誘惑しようとしましたラブラブ

 

(女帝の愛人で評判の美女に成長したエリザヴェータを誘惑したキョロキョロ



しかし肝心の夫であるアレクサンドルはまた美しい妻エリザヴェータを放任していました滝汗滝汗



アレクサンドルとエリザヴェータの結婚生活は悪化していきましたあせる



孤独に耐えかねたエリザヴェータはアレクサンドルの友人の一人でポーランド貴族のアダム・チャルトリスキ公爵と恋に落ちました。




結婚5年以上たった、1799年5月にエリザヴェータは待望の女の子を出産しますニコ





しかし産まれた娘をみて皆仰天しましたガーンハッ

アレクサンドルもエリザヴェータも見事なブロンドに青い目をしていたにもかかわらず、産まれた子は黒髪、茶目だったのからですアセアセ




産まれた女の子は乳児のうちに死んだとされています。父親とみなされたチャルトリスキ公爵は外国へと追放されました。



ポーランド貴族のアダム・チャルトリスキ公爵)


アレクサンドルはロシア皇帝に即位すると妻エリザヴェータへの扱いを改めるようになりました。






公の場で丁寧に接して、食事を共にするように努力しましたニコイエローハーツ





一方でアレクサンドルは1803年にポーランド王族マリア・チェツェティンスを愛妾にし、2人の関係は15年以上続きました。



(アレクサンドル1世の長年の愛人、マリア・チェツェティンスニコ

そしてエリザヴェータは寂しさに耐えかね、またしてもアレクセイ・オコトニコフと不倫関係になり、1806年11月、エリザヴェータは第2子となる女の子を出産しました。




翌年エリザヴェータの愛人、オコトニコフは謎の死を遂げました。滝汗
殺人犯はアレクサンドルの弟だと言われています。

生まれた女の子も生後15ヶ月で亡くなりました。





アレクサンドルを悩ます出来事がまた出てきました。1812年フランス皇帝ナポレオンがロシアへ攻めてきたのです。 





このナポレオンのロシア遠征はアレクサンドルにとって相当なストレスでしたガーンガーン
 
ナポレオンを撃退したアレクサンドルでしたが1819年にはロシア皇帝の座はストレスだったのでしょう、弟のニコライに『退位したい』、周りの人々や妻エリザヴェータにも、『責務から身を引き隠棲したい。』、『もう疲れた』と精神的な疲れを告白しており、周りの出来事に無関心に陥っておりうつ病に罹っていたとされています。





1825年12月1日にアレクサンドルは熱病により死去したと伝えられました。

アレクサンドルの突然の死はその直後からさまざまな風評を呼びます滝汗




アレクサンドルは身体的な健康に恵まれていたこと、まだ47歳の若さだったこと、死去した土地が首都ではなく黒海沿いの僻地だったことも強く影響しました。







この不可解な死は〝ピョートル・クジミッチ伝説〟を生み出しました。


アレクサンドルは1825年に死んでおらず、ピョートル・クジミッチと名を変え1864年まで行きシベリアの田舎で死んだとささやかれました。


ピョートル・クジミッチぶー

ピョートル・クジミッチとアレクサンドルの共通点は沢山あり、高身長(2人とも背が高かった)、年齢、右耳が不自由だったこと、教育水準の高さ、宮廷生活に精通していたことなどがあげられますニコニコハート




また聖書や歴史にも詳しく、その噂はペテルブルクの宮廷にさえ届きました。



そのうちピョートル・クジミッチは聖人とみなされ、話を聞きに大勢の人々が訪れるようになった。ピョートル・クジミッチが死んだ時には手厚く葬られ、その墓は巡礼地となりましたグラサンキラキラ




さらに30年後、日本訪問の帰りにニコライ皇太子、後のロマノフ家最後の皇帝ニコライ2世も訪れました真顔


(ロマノフ家最後の皇帝、ニコライ2世ニコ



つまりこのピョートル・クジミッチこそ父親殺しの罪を犯して即位したアレクサンドル1世であり、自らの大罪を悔い、罪を償うために地位を捨て名を変えてシベリアの片田舎で生涯を終えたのだというのだ。




アレクサンドル1世とエリザヴェータの間には子供が成長しなかったため、弟のニコライがロシア皇帝の座についた。



妻エリザヴェータは1826年5月の朝、ベッドの上で冷たくなっているのを侍女に発見された。

47歳だった。






妻エリザヴェータは心臓の衰弱による死といわれている。