ーハートをあげる。だからダイヤを頂戴。


(シャトーブリアン伯爵夫人フランソワーズ・ド・フォワ。1495〜1537)


フランソワーズ・ド・フォワはフランス国王フランソワ1世の愛妾。別名シャトーブリアン伯爵夫人としても知られていますニコニコドキドキドキドキ 



(恋多き王でオペラ、リゴレットのモデルにもなったフランス国王フランソワ1世ニコ
   

フランソワーズ・ド・フォワはロートレック子爵ジャン・ド・フォワとジャンヌ・デディーの娘として1495年に誕生しましたラブドキドキドキドキ






いつからからはわかりませんがフランソワーズは10歳の時にすでに又従姉妹でありフランス王妃アンヌ・ド・ブルターニュのいるブルターニュのアンヌの宮廷で育てられ、アンヌ王妃の侍女をしていましたニコ


わずか10歳のフランソワーズを見初めた人物がいましたキョロキョロキョロキョロ





それが19歳のシャトーブリアン伯爵ジャン・ド・ラヴァルですショボーン   




当時のある歴史家はその時のフランソワーズを次のように描写している。

『9月4日、フランソワーズは子供時代からやっと抜け出して11歳になろうという年頃なのに彼女の美しさはすでに完成されていたので人々はフランソワーズの驚くべき美しさに心を奪われた。

日1日と完成されていく恵まれた肢体。。



誇りと優しさが入り混じった魅力的な風情。  



顔色の白さと輝きを引き立たせる豊かな黒髪。こうしたすべてが自由で公正、繊細にして良識あふれる精神と結びつき、彼女はその時代で最も類稀な少女になっていた…』

と絶賛していますキョロキョロラブラブ




(フランソワーズが生きた時代のドレスお願いドキドキドキドキ






また長身で黒髪の美女でラテン語とイタリア語を話し、詩を書く頭の良い少女でもありました。

フランソワーズの肖像画は色があまりないので黒髪だった、というのは貴重な情報ですキョロキョロイエローハーツ    




さてそんなフランソワーズを見初めたシャトーブリアン伯爵ジャンは1505年、フランソワーズに婚約を発表しました。




フランソワーズ、わずか10歳のときでした。





婚約後すぐに婚約者はフランソワーズをブルターニュの宮廷を去り、自身の城のあるシャトーブリアンにフランソワーズを連れ帰ってしまいました滝汗滝汗




フランソワーズは1507年12歳で女の子を出産しました滝汗滝汗   



(シャトーブリアンにある城口笛ドキドキドキドキ

婚約中の12歳の少女に子供を産ませるなんて夫はロリコンが入っていたのでしょうか。。チーンアセアセ




正式な結婚は1509年フランソワーズが14歳の時です。





フランソワーズはシャトーブリアン伯爵夫人となりましたショボーンラブラブ





それから10年2人はシャトーブリアンの城で仲良く暮らしていました。 






いまや20歳となりその美しさは照り輝くばがり。。






素晴らしく形のよい乳房とお尻がしなやかに揺れるのを見た者はどんなに謹厳な堅物でも自らの肉体が急激に変化するのに直面して赤面すると言われていました。





こうしたフランソワーズの美質がいつまでもブルターニュの田舎に埋もれたままでいるはずがありません。

この話を聞きつけたフランス国王フランソワ1世はどうしてもフランソワーズに会いたくなってしまったのですキョロキョロ


(フランソワーズが生きた時代のドレスラブドキドキビックリマーク

ただちにフランソワーズの夫、ジャン・ド・ラヴァルのいるシャトーブリアンの城に使いをやり、妻と一緒に自分のいるブロワの宮廷まで伺候するように、と命じましたうーんうーん
 





夫ジャン・ド・ラヴァルはフランソワ1世の好色ぶりをよく知っていたので、一計を案じ、宮廷には自分一人なだけで参内することにし、美しい妻にはこう命じました。   




『いいか。よく聞いてほしい。ここで揃いで作らせた2つの指輪がある。  



1つはお前が持っていなさい。私はこれからフランソワ1世の元に伺候することになるが、たぶんお前宛にブロワの宮廷に出仕に来るようにというわたしの手紙が届くだろう。





だがその手紙の中にわたしの指輪が入っていなければ〝来てはいけない〟という意味だ。反対に指輪が入っていたら〝来てもよい〟ということだ。
   



このことをゆめゆめ忘れないように』





そう言い残し夫はフランソワ1世の元に伺候しました。




事実、ブロワの宮廷から届いた夫からの手紙にはすぐに宮廷に伺候するようにという文面にも関わらず指輪が入っていません。







それから2通同じ内容の手紙が届きましたが相変わらず指輪は入っていません。
ところが4通目の手紙には指輪がしっかりと封入されていました。



フランソワーズは首をかしげながらもブロワの宮廷に向かいましたうーんもやもや




実はこの指輪は偽物で夫ジャン・ド・ラヴァルが指輪の仕掛けを召使いに自慢してしまったため、フランソワ1世に秘密がばれ、そっくりな指輪を国王お抱えの金銀細工師に作らせて手紙に同封したからですキョロキョロアセアセアセアセ





フランソワーズがブロワの宮廷に現れたとき、夫のジャン・ド・ラヴァルは驚きと怒りで卒倒しそうになりましたムキー炎炎




フランソワ1世に一杯食わされ怒った夫のジャン・ド・ラヴァルは、シャトーブリアンの領地に帰ってしまいましたムキームキー


(フランソワーズの時代のヘッドアクセキラキラカチューシャタイプラブ

魅力的なフランソワーズを見てフランソワ1世はフランソワーズをベッドまで連れて行こうとしました。




しかしフランソワーズの操は堅固に作られていましたニコ





といってもフランソワーズが貞操観念の強い女性だったからではありません。フランソワーズはかなり狡猾な女性だったからです…アセアセアセアセ





結局フランソワーズとフランソワ1世がベッドを共にしたのは出会いから3年後の1518年のことでした。



公式寵姫となったフランソワーズはシャトーブリアン伯爵夫人となのり、国王が赴くとこれはどこでも付いていくようになりました。もぐもぐドキドキ


フランソワーズの兄弟縁者たちはことごとく出世し、フォワ家は王家に次ぐ厚遇を与えられることになったのですニコビックリマークビックリマーク




それから10年間はフランソワーズの天下でした。




しかしフランソワーズには敵が1人いました。それはフランソワ1世の母親である母后ルイーズ・ド・サヴォワですえーん 


(フランソワ1世の母親ルイーズ・ド・サヴォワグリーンハーツ

母后ルイーズに嫌われたフランソワーズ。。滝汗







そして1525年、この年フランソワ1世はパヴィアの戦いで神聖ローマ帝国のカール5世率いるスペイン・オーストリア軍に敗れ、マドリードで捕虜になってしまったのですガーン!
 



翌年フランソワ1世は解放されたタイミングで母后ルイーズは美しい女官を何人か見繕って息子に与えました。




そしてその中の1人、まだ10代のブロンド娘でピカルディー地方の貴族アンヌ・ド・ピスルー・デイリーをフランソワ1世が大変気に入って公式寵姫にしてしまったのですゲロー炎炎



(フランソワーズの後釜、アンヌ・ド・ピスルー・デイリーラブラブ




劣勢を悟ったフランソワーズは夫のいるシャトーブリアンへと帰っていきました。

しかし底意地の悪いアンヌ・ド・ピスルーは追い討ちをかけるようにフランソワーズにフランソワ1世からプレゼントされた見事な銘入りの銀細工を返還するように命じて来たのですガーン!!






フランソワーズは優雅に3日後に要求の品を返還すると答えました。  




するとただちにフランソワーズは金銀細工師を呼びつけ、王からのプレゼントをすべて溶かしてしまいました滝汗滝汗    



 
溶かしたものを一本の金の延べ棒にし、使者に向かってこう述べました。
『金の延べ棒にしてお返しします。いただいた銘の方はわたしの心に刻みつけ、取っておきます』

と。












その金の延べ棒と言葉を受け取ったフランソワ1世は『ひとりの女性がこれほどのことを成し得るとは…』と感嘆しました。





宮廷中がフランソワーズの振る舞いを絶賛したと伝えられています… 






その後のフランソワーズですが、夫のいるブルターニュのシャトーブリアンの領地に帰り、幸せに暮らしたと言われていますもぐもぐドキドキ

ただ1537年10月にフランソワーズが死去した際は夫ジャンにより殺害されたと噂されたといいます。




夫ジャンは1543年2月に死んだが、後任の人物はアンヌ・ド・ピスルーの夫でした。


果たして真実は…ぶーはてなマーク