(モナコ公妃 グレース・パトリシア・ケリー 1929〜1982)
人気絶頂の最中、26歳でヨーロッパの君主と結婚し女優業から引退し、モナコ公妃となった女性です。
グレース・ケリーは1929年11月12日フィラデルフィアの裕福な家庭に生まれました。
ケリー家についてグレースの従兄弟チャールズ・ケリーは、
『ケリー一族の結婚はどうも上手くいった試しがないんです。』と漏らした。
グレースの父親、ジャック・ケリーはスラム育ちの貧しい煉瓦職人でした。
ジャックの運動神経は並外れており、ボート(スカル)選手になりました。
この競技は技術より、体力勝負という競技で
ジャックは偏執狂ともいえるほどスカルの練習に打ち込みました。
ジャックはアメリカ国内で何回か優勝し、次に1919年イギリスで行われた、ダイヤモンドスカル競技大会に参加しようとしたが、大会3日前に参加申し込みは受理できないという連絡があった
理由はジャックが煉瓦職人であり労働者階級だからだっだ。当時ボート競技は上流階級のスポーツであとたからボート関係者から嫌がらせを受けたのだった
しかしジャック・ケリーはそんなことでめげる男性ではなかった。
1920年のアントワープオリンピックで金メダルを2個獲得し、一躍国民的英雄となった。
事業にも精力的だったジャックは煉瓦会社を立ち上げ、強い意志で事業を拡大させ億万長者となった。
グレースの母親、マーガレット・メイジャーもまたスポーツ万能で、特に水泳が得意だった。またペンシルバニア大学で初めての女性体育教師となった。美しかったマーガレットはモデルもしており、ドイツ貴族の血を引いていた。
この2人の間に1925年ペギー、27年ケルが生まれグレースは29年に誕生した。33年には妹、エリザベスが誕生した。
グレースたち兄弟は父親ジャックの影響を強く受けて育つことになる。
まずジャックは息子ケルに1919年に自分が参加できなかった屈辱を拭うため、ケルが7歳になると最高のスカル選手にしようと狂信的ともいえる熱意を傾けて特訓を始めた。
真面目で頑張り屋だったケルは一切の社交生活を断念し、デートもせず、厳しいトレーニングに励んだ。
ケルは優秀なスカル選手となり父親ジャックからとても愛された
しかし最も愛されたのは長女のペギーである。
明るく活発でスポーツ万能のペギーは父ジャックの大のお気に入りで露骨に兄弟たちを差別し、手放しでペギーを可愛がった。
グレースは運動があまり得意ではなく病気がちだったので父親ジャックから愛されなかった
ジャックは友人に、
『グレースはわたしの娘なんかじゃない。私の家族はみんなスポーツが好きで得意なのに。』
と漏らした←ちょっっとひどくないですか⁈
父親ジャックは後年グレースが女優になりオスカーを受賞したときも報道陣に、
『私はいつも何かやりとげるとしたらペギーだと思っていました。
グレースができることでしたらペギーの方が上手くできますからね。
まったく信じられませんよ。』
と答えた←えぇっ?自分の価値観でしか物事をはからない人ですね。。
高校時代というものはある人にとっては人生で最高に楽しく、ある人にとっては一刻もはやく終わって欲しい時期である。
グレースにとっては後者だった
この時期のグレースは太っていて眼鏡をかけており、また内向的な性格のため惨めな少女時代を過ごしたという言われている。
1948年グレースが高校を卒業しようとした頃、家族はそれまで以上にグレースを無視するようになった
理由は長男ケルがイギリスのダイヤモンドスカルの大会に参加するためだった。
そのためグレースが大学に入学しようとした時には既に入学願書は締め切られていた。
グレースには劇作家である叔父がいた。
その叔父のおかげでグレースはNYにあるアカデミー・オブ・ドラマティックアーツという俳優養成所に入学することができた。
またグレースはNYに行く前に大事な儀式を済ませていた。18歳でグレースは処女を失ったのである。
相手はグレースより年上で既婚者だった
グレースは容姿、才能、運とともに恵まれすぎるほど恵まれていた。
NYでモデルのアルバイトをしながら演技を学び、22歳で映画出演デビュー。
その後は、真昼の決闘、ダイヤルMを廻せ!、裏窓、泥棒成金などのヒロインを務めた。
1954年『モガンボ』でアカデミー助演女優賞にノミネートされ、グレースは24歳で『喝采』でアカデミー主演女優賞を遂に獲得しました。
しかし思うにまかせないことがひとつだけあった。それはグレースの異常なほど多い男性関係であった。
共演者と 次々に恋に落ち、ゲイリー・クーパー、クラーク・ゲーブル、レイ・ミランド、ビング・クロスビー、ウィリアム・ボールデン、オレグ・カッシーニ、などの自分より年長の男性と浮名を流した。さらに多くは既婚者だった
父親から愛されなかった故の典型的なファザーコンプレックスでした。
しかも父ジャックはグレースに冷淡なくせにグレースの男性関係に異常にうるさかったため、父親の気をひくため無意識に〝父親が反対する相手〟を恋人に選んでいた。
グレースは外見の貞淑さとは反対に誰とでも寝た。実際には寝る必要のないプロデューサーやディレクターとも寝ていました
ある人はグレースを〝ハリウッドの娼婦〟と呼びました。
グレースは父親や家族のせいで愛情に飢え、恐ろしいまでの孤独感に苦しんでいました。その苦痛を和らげる方法が男と寝ることだった。
(グレースは避妊は男性まかせでペッサリーなどは使わずコンドームを使用していた。)
しかしグレースがオスカーを受賞しても父親から正当に評価されることは決してなかった。
25歳のグレースはモナコ大公レーニエ3世と出会い、恋に落ちた。
グレースは 結婚にあたりプライダルチェックを受けることになっていた
しかしチェックを受ければ自分が処女ではないとわかってしまう。そこでグレースは高校時代にホッケーをしている時に処女膜が傷ついたと嘘をついた。
一年後ふたりは世界中から祝福されて夢のような結婚式を挙げた。
グレースはモナコのよい王妃になろうと誠心誠意努力しました。
世継ぎもキャロリーヌ、アルベール、ステファニーと3人産んだ
グレースはレーニエのよき妻であろうとしたが、次第にレーニエの独断的な性格や浮気に悩まされていった
キャロリーヌとステファニー王女はパリの社交界で派手に遊びまわり次々と問題を起こした
さらにケリー家にもよくないことが続いた。
1960年父親ジャックが胃がんで死去した。
そして姉のペギーが結婚を2度失敗した。その娘が10代で駆け落ちした。
さらに兄ケルは中年になるとそれまでさんざん叩きこまれた精神的な呪縛を振りほどいて、妻と、6人の子を捨て性転換した女と関係を持った。
父親のせいで青春時代を経験できなかったケルは40歳を過ぎて青春を味わっていた。
(グレースの兄ケルの結婚式)
そもそもケルはスカルはやりたくなかった。本当はフットボールがやりたかった。しかしそれを父ジャックにいうことはできず、一人の息子の一生を台無しにした。
レーニエ大公との不仲は深まり、頼るものもないままグレースは〝幸せな王妃〟を演じなければならなかった。
グレースはいつしか深酒に溺れていった。
1982年9月13日グレースは交通事故で死亡。52歳だった。
しかしグレースが車にブレーキをかけた様子は全くなく、崖に向かって直進していた。
グレースの死と共にモナコ大公一家の秘密が次々と明るみに出た。
美と富と名声を手に入れた現代のシンデレラ、この世の幸せを一身にまとっていると信じられていた女性、その人の輝くような笑顔の裏にあったおぞましい真実を人々は知ることになった。
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