(エリザヴェータ・ペトロヴナ 1709〜1762)
エリザヴェータ・ペトロヴナはロマノフ朝第6代目の皇帝(女帝)です。
エリザヴェータは愛、権力、美、金、地位、名誉など女性の欲しいものはすべて手に入れたパワフルな女性です
エリザヴェータはピョートル大帝の娘として生まれました
エリザヴェータの父、ピョートル大帝は偉大な君主でロシアの近代化に力を注ぎました。
ピョートル大帝の治世になるまでロシアの皇女たちは結婚することができませんでした。
皇女たちが結婚できないのはロシア貴族たちは皇帝の奴隷だからで奴隷とは結婚できない、というからです
そうかといって外国の王子や公子との結婚もできませんでした。宗教が違うし、皇女たちは外国の言葉や習慣を知らず、読み書きもできず教養もなく恥をさらすことになるからである
こうしてロシア皇女たちは隠遁修道女のような生活を強いられ、結婚して子どもを産む権利を奪われて、さみしく一生を終えていきました
皇女たちへの待遇を変えたのがエリザヴェータの父、ピョートル大帝です
ピョートル大帝は西洋への窓口として新都ペテルブルクを建設。ロシアを一気に近代化させました。
エリザヴェータはピョートル大帝の2番目の娘として1709年12月18日に生まれました。
エリザヴェータにはアンナという姉がおり、ピョートル大帝の意向で2人ともフランス語、音楽、ダンスなどのヨーロッパの皇女として恥ずかしくない教育を受けました。
エリザヴェータは特にダンスが大好きで音楽に身を委ねて軽やかに踊る少女は全宮廷の賞賛を浴びました。
エリザヴェータの姉、アンナ皇女は1725年スウェーデン王家の一員であるホルシュタイン=ゴットルプ公カール・フリードリヒと結婚
エリザヴェータにはルイ15世との結婚話も持ち込まれました
フランスに送られるエリザヴェータの肖像画に添えた手紙には、
『エリザヴェータ皇女は快活でご利発、百合のような肌と薔薇のような艶やかな微笑みをお持ちです』
と書いてありました。
しかしフランス側はエリザヴェータとの婚約を拒否しました。
フランスにしてみればつい最近まで熊が首都を徘徊するような野蛮な国と格調高いブルボン家との縁組など身の程知らずも甚だしいということだった
フランス王妃の座を逃したエリザヴェータはひどく傷ついていた。
エリザヴェータの母エカチェリーナは可哀想などエリザヴェータのためにエリザヴェータ自身をロシアの次期皇帝にすることを決意しました。
エリザヴェータ18歳の時母エカチェリーナが死亡。
エリザヴェータの従兄弟ピョートル3世が即位するが、3年後に死亡。その後はエリザヴェータの異母兄の娘アンナが女帝になる。
その後紆余曲折を経て、エリザヴェータは自身こそピョートル大帝の真の継承者だと演出することで即位の正当性を主張し、クーデターを成功させた。
1741年、エリザヴェータはロシアの皇帝となった。エリザヴェータはまだ32歳の若さだった。
おしゃれに関心が高かったエリザヴェータは1万5千着ものドレスを揃え、いつでも宝石で飾り立てた。
それどころか一度着たドレスには二度と袖を通さなかったし、日に数回着替えをするほどだった
エリザヴェータはたいそうな美人だったからおしゃれも映えた。
ただ困ったことに自分より美しい女性は気に入らず、自分より綺麗に着飾っている女性がいると噛み付いたり、殴ったりした
エリザヴェータは淡いピンク色のドレスを好んだ。しかし他の女性にはピンク色のドレスを着ることを禁止しました
エリザヴェータはダンスや観劇、仮装舞踏会が趣味で明るく気さく、誰からも愛される美しいエリザヴェータ。
だが裏の顔は残酷で醜い嫉妬心に支配された女神。
自分より美しい女性を憎み、自分より美しく着飾ることを許さないエゴイスト。
エリザヴェータは女帝だったが、おもいっきり恋も楽し見ました
多くの愛人を持ったっ言われているが、最も長く続いたのは宮廷聖歌隊員出身のアレクセイ・ラズモフスキーだった。
エリザヴェータとラズモフスキーとの恋愛関係はなんと20年も続きました。
しかもエリザヴェータとラズモフスキーは1742年1月24日にモスクワ近郊の小さな教会で秘密裏に結婚式を挙げ、秘密結婚までしました。
エリザヴェータは表向きには未婚のため、世継ぎに姉アンナの息子ピョートルをロシア皇太子にしました。
皇太子妃にゾフィー(後のエカチェリーナ2世)を選んだのも容姿がそれほど良くな位ことが理由のひとつだった。
ゾフィーの母、ヨハンナは、
「エリザヴェータ・ペトロヴナは嫉妬深くて、彼女より美しく装ったりしたら大変なんですよ。だから若い美人は慎ましい服装で目立たなくするのに苦労するそうですわ。」
と言っていたのだからその徹底ぶりは本物だ
エリザヴェータは髪にもこだわりがあった。エリザヴェータの髪はもともとブロンドだったがあるとき、『私の青い瞳には黒髪のほうがよく似合うわ』と気づいた。
それ以降エリザヴェータは髪を黒くみせるためふんだんに髪粉をふりかけるようになった。だがそんなことをしているうちに髪の毛がもつれて収拾がつかなくなり、もう髪を剃り落とすしかなくなってしまった
そこでエリザヴェータは前代未聞の蛮行に出た。宮廷中の女性の髪を自分と同じよう剃らせたのである
長くのばした巻き毛を根こそぎ剃って坊主にさせられた女たちは号泣した
しかもエリザヴェータは自ら剃刀を手に持って王宮の廊下を歩き回っては巻き毛の女を探し、彼女たちの髪の毛を剃り落としていったといわれている
エリザヴェータはロシアの女帝。ロシア一の権力者なのだ。誰も逆らえない。エリザヴェータは美しすぎる侍女を追放したり、舌を切られてシベリア送りにされた貴婦人もいる。
エリザヴェータの晩年は病気がちだった。エリザヴェータは肥満気味だったし、夜な夜な舞踏会、夜会、仮装舞踏会にうつつをぬかして心ゆくまで飲み食いした生活の結果でした。
エリザヴェータは1761年2月25日に亡くなった。52歳だった。最期まで派手な女帝でした