1926年、6月1日、後のマリリン・モンロー、ことノーマ・ジーンはロサンゼルスで生まれました。
マリリンは私生児でした当時母親のグラディス・モンローが一緒にフィルム工場に勤めていた男が父親ではないかと言われています
マリリンの母、グラディスは美しい女だった。その母親、つまりマリリンの祖母もまた、負けず劣らずの美女でしたしかし彼女たちの周辺は呪われたとしかいいようのない血筋でした。
曽祖父のティルフォード・ホーガンは首吊り自殺。祖父のオーティス・モンローは梅毒の精神障害により全身麻痺で死亡。
祖母のデラ・モンローは精神病院で死亡。
母親のグラディスも精神分裂病、躁鬱病がマリリンを産んだ後ひどくなりその生涯のほとんどを精神病院で過ごした。
故にマリリンは里子にだされあちらこちらたらい回しにされて育つことになった
9歳のとき性的暴行を受けたとも言われている。また15歳の時には妊娠、出産したとも言われている。
マリリンは16歳ではやばやと結婚した。
相手は21歳のジム・ドアディという青年でやたら男の目を惹く娘に成長したマリリンを当時の里親が心配して結婚させた。
しかしマリリンは主婦にまったく向いていなかった
マリリンはまったく家事が出来なかった。
部屋も片付けるのは苦手だったし、料理のセンスは絶望的だった。
後にマリリンは境界性パーソナリティ障害だったと言われています。
19歳のマリリンはピンナップモデルを経て女優を目指すことにします。
マリリンは20歳で夫とは離婚しました
新人女優だったマリリンはエージェントのすすめで〝妊娠しないよう〟『卵巣結紮手術』を受けたという。
さらにマリリンは19歳になるまでに2回自殺未遂をしている。一度めはガス、二度めは睡眠薬。
女優として鳴かず飛ばずだった23歳なマリリンに運命の出会いが訪れます。
とあるパーティでマリリンはジョニー・ハイドという男性と出会った。
ジョニー・ハイドはラナ・ターナーやリタ・ヘイワースを売り出した敏腕エージェントで莫大な資産家
ただし当時53歳だったジョニー・ハイドは心臓を悪くしておりあと一年半の余命だった。
ジョニー・ハイドはマリリンの才能に惹かれ、マリリンを完璧な美女にすべく鼻と顎の整形手術を受けさせた。
さらに専属の美容師をつけてもらい髪をプラチナブロンドに染めさせて、服やアクセサリーは好きなだけ買いあたえた。さらにビバリーヒルズにあるホテルを自由に使える、という高待遇をマリリンは受けた
(マリリンは売れない時期に高級コールガールをしており、『ずいぶん四つん這いの人生を過ごしたわ』という過激な言葉も残している)
ジョニーはマリリンを愛し、妻と離婚しマリリンに財産を残そうとマリリンと結婚したがった。
しかしマリリンはこの申し出を断っている。
さらにジョニーのおかげでマリリンは『ラヴ・ハッピー』という映画に出演できた。
24歳の時マリリンはジョニーのおかげでまたも映画に出演した。『イヴのすべて』に出演
そしてジョニーは20世紀フォックスとの長期契約をとってきた。これは7年契約でマリリンの女優としての成功を約束するものだった。
しかしその年ジョニー・ハイドは死んだ。
マリリンは三度めの自殺未遂をした。25歳まであと半年という若さだった。
ジョニーの死から立ち直ったマリリンは1950年『アスファルト・ジャングル』で一気にトップ女優として駆け上がっていった。
マリリンは非常に傷つきやすい性格でした。
ちょっとでも批判めいた言葉を浴びせられると、繊細で傷つきやすいマリリンは
『どうしてみんな、あんなに残酷になれるのかしら。どんな残酷なことをしてもまるで平気な顔をしていられるのかしら』
さらにマリリンは極端な舞台恐怖症でもあった。素晴らしい才能があったのに自分に自信がなかった。
大勢の観客の前で台詞をいうことに対する恐怖、極端なまでのあがり症だった
1954年、27歳。マリリンは二度めの結婚をした。
相手はアメリカ野球界の人気者、ジョー・ディマディオだった。
しかしこの結婚は9ヶ月しな続かなかった
マリリン28歳。マリリンはひどい生理痛を抱えていた。
度重なる中絶、それも若い時の手術はおそらく技術の高い医師によるものではなかったため、深刻な後遺症が出ていた。
それでも『紳士は金髪がお好き』や『億万長者と結婚する方法』に出演し、一躍ハリウッドスターの仲間入りを果たした⭐️
29歳のときマリリンはまたも中絶手術を受けた。実に13回めの中絶手術だった
マリリンは30歳のとき劇作家のアーサー・ミラーと結婚。
この頃のマリリンは精神的に不安定で睡眠薬や興奮剤を多用し、それをアルコールと一緒に飲んで何度も死にかけている。
マリリンは本来麻酔に使用されるバルビツール酸系のアミタールを静脈注射で常用していた。
マリリン35歳のとき三度めの離婚をした。
この時のマリリンは浴びるようにお酒を飲みゆきずりの男性としょっちゅう寝ていた。周囲はいつマリリンが死んでもおかしくない、と心配していた。
マリリンも30半ば、肉体にしか自信を持てないのにその肉体は確実に老い始めていた。焦りと孤独、恐怖に苦しめられてマリリンはだんだん錯乱状態になっていった。
一方でマリリンは
『完全な女なりたい。子供を産みたいのよ』
と子供を産む希望は捨ててはいなかった。しかし度重なる中絶手術の影響でマリリンが赤ちゃんを産むことはなかった。
マリリンは精神病院に入れられた。さらに最後の映画になった『女房は生きていた』を撮影するが途中で降板させられた。
傷心のマリリンはジョン・F・ケネディとその弟ロバート・ケネディと関係を持った。
1962年8月5日マリリンは自宅のベッドで全裸で亡くなっているのを発見された。死因は睡眠薬の大量服用による急性バルビツール中毒とされた。
マリリンには自殺説、事故死説、暗殺説などその死の原因はいまだ謎が残っている。
しかしマリリンの死は誰もが予想していた。起こるべくして起こった死だと言えるでしょう。
(死亡解剖が行われた後に撮影されたもの顔面の変色は死後に現れたもので、執刀の結果、顔の一部が陥没している。執刀前のマリリンは美しかったという)
マリリンの死後、マリリンの2番目の夫、ジョー・ディマディオはマリリンを愛し続け、マリリンの葬儀には愛している、と声をかけ、涙を流した。
ジョー・ディマディオは自身が亡くなるまでマリリンに対するコメントには一切答えなかった。
ある記者が『話してくれたら5万ドル払う』といったが、『世の中には金には変えられないものがある。それは愛の思い出だ』と即答した。
さらにマリリンの死後、週に3回、マリリンの墓に赤いバラ(品種はアメリカンビューティ)を送り続けた。
(ジョー・ディマディオが送り続けたアメリカンビューティ)